18世紀フランスの思想家であるディドロによる小説。ある日の午後、カフェで出会った大作曲家ラモーの甥(であるから、この男の名もラモー)と私(哲学者)との間で交わされた対話という体裁で書かれている。当時の社交界人士に対する皮肉、社会の欺瞞、天才について、音楽論など対話の内容は多岐にわたる。二人の男がカフェの一卓で会話をしているだけの、波乱万丈な展開が全くない小説なのだが、ラモーの特異な個性と鋭い人間観察に基づいた会話によって、非常に面白い読み物になっている。
音楽家くずれのラモーは、物まねやパントマイムが得意な口達者であり、「道化」として大ブルジョワのベルタン氏を楽しませることで、「食事や、寝床や、着物や、胴着と股引や、靴や、月々のピストル銀貨」をもらって暮らしていた。しかし、ある夕食の席で放った冗談が、ベルタン氏を怒らせてしまい、屋敷から追い出されてしまう。困窮したラモーは、カフェで出会った私(哲学者)に、自らの境遇に対する憤懣をまじえて、「自然界じゃ、すべての種が互いに食いあっているし、社会じゃすべての身分が食いあっています」という見解に基づいてピカレスクな論を述べる。それに対する私(哲学者)の意見は、“人間性の未熟さから、今の社会には欠陥があふれ返っているけれども、それでも世の中は少しずつ発展していって未来は良いものになっていくだろう”という考え方に基づいている。
現代人にとっては、両者の意見にそれほどの斬新さを感じないかもしれないし、音楽は「(人間の)情念や自然現象の抑揚を模倣したもの」である、という音楽論に納得する人はあまり多くはいないだろう。しかし、社交界の男女の虚栄心につけこんで小銭を巻き上げているラモーの、悪党としては“小粒”でありながらも、「わしが少なくとも下劣さにかけては独創的であるということをあんたの口から言わせたかったし、あんたの頭の中にわしという者を大無頼漢の一員として焼きつけ」たいという「偽悪者」ぶりと、「狂った芸術的感興と満たされぬ天才への渇望の悲哀」には、小説の登場人物としての魅力がある。それに、ディドロの文章の、知性と感性の明晰柔軟さも非常に魅力的だ。テーマの今日性はさておいても、興味深い小説であることは間違いないと思う。

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ラモーの甥 (岩波文庫 青 624-3) 文庫 – 1964/7/16
百科全書派の巨匠ディドロの最高傑作とされる対話体小説。大作曲家ラモーの実在の甥を、体制からはみ出しながら体制に寄食するシニックな偽悪者として登場させ、哲学者である「私」との対話を通して旧体制=アンシャン・レジームのフランス社会を痛烈に批判する。生前には発表されず、1805年ゲーテのドイツ語訳によって俄然反響を呼んだ。
- 本の長さ224ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日1964/7/16
- 寸法10.5 x 1 x 14.8 cm
- ISBN-104003362438
- ISBN-13978-4003362433
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (1964/7/16)
- 発売日 : 1964/7/16
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 224ページ
- ISBN-10 : 4003362438
- ISBN-13 : 978-4003362433
- 寸法 : 10.5 x 1 x 14.8 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 529,253位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 816位フランス文学 (本)
- - 3,180位岩波文庫
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2017年4月10日に日本でレビュー済み
本書は、ディドロの死後20年間知られず、偶然に原稿を入手したゲーテが感動して独訳して発表したという、いわくつきの「奇書」であり、ヘーゲルも『精神現象学』で激賞した。大作曲家ラモーの甥にあたる人物(実在し、ディドロの知人)と哲学者の対話という形をとっているが、マッキンタイアによれば(『美徳なき時代』)、近代に初めて登場した「審美家(=美的生き方をする人)」というキャラクターを創始したと同時に、自己を幾つもに分割し、それぞれの「仮面」をつけた複数の自己が交替で前景に出るという新しい自我の表現法を編みだした点でも、キルケゴール『あれか、これか』の先駆にあたる画期的書物なのである。マッキンタイアは、甥のラモーについて、「人生の目的をもたない無頼漢」であり、「哲学的想像力が生んだこの無頼漢は、近代世界の入口できわめて不遜な暮らし方をしているが、彼らは架空の虚構的主張を見抜くことに熟達している」と述べている。ラモーは、音楽家のはしくれで、大ブルジョアに寄食しており、自分で稼ぐ能力がないにもかかわらず、自分の有り余る時間を美的な経験(恋愛や音楽が中心)に費やす「審美家」であり、利己主義に生きる反道徳的な無頼漢である。かつては、ドン・ファンのような貴族にしか許されなかったが、近代や現代では、裕福でない市民でもそうした「空想と願望に生きている」人は多いという重要な人間類型なのである。ゲーテが本書に異様な関心を示したのも、おそらくそれが理由であろう。ラモーは、大ブルジョアのパトロンから捨てられて乞食同然の貧乏暮らしなのだが、「審美家」として昂然と生きている。対話相手の「哲学者」が良識あるブルジョア道徳家であり、その主張が弱々しいのに対して、ラモーはその存在の「濃さ」で、哲学者の存在の「薄さ」を圧倒している。
2006年3月20日に日本でレビュー済み
この本は、多面的な人間について書かれた本である。本中に出てくる寓意的な表現、それがこの本の内容を際立たせている。一般の人を痛烈に風刺する語句、天才のインスピレーションなどこの本はその薄いページからは想像も出来ないような内容を含んでいる。
しかしただこの本を読むだけでは、この本の内容は理解できない。そこには自らの経験、それを反省したことによる判断力が伴う必要がある。その判断力がどれほど必要か?は、読者諸氏の判断にお任せすることにしよう。
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