杉原千畝氏に学ぶ!身命を賭して書き続けた6,000人超もの命のビザ!

今日(2015年1月1日)は、杉原千畝氏生誕115年目の日です。
第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた外交官であり、外務省からの訓令に反して6,000人超もの避難民にビザを発給した、まさに偉人。
杉原千畝氏は「日本のシンドラー」などと呼ばれていますが、私はオスカー・シンドラーの方が「ドイツの杉原千畝」と呼ばれるべき!と言いたい程、もっと評価されるべき人物だと思っています。
なぜなら、オスカー・シンドラーが助けたのは1,200人名強。しかも、ほとんどが自身の工場で雇用していた労働者です。
一方、杉原千畝氏が助けたのは6,000人超。しかも家族を連れていたとはいえ、リトアニアでの日本人外交官は彼ひとり。
そんな立場にありながら、ビザを求めて日本領事館を訪れた縁もゆかりもない人々に対し、訓令に反して失職覚悟での独断によるビザ発給を続けたのです。

大まかにですが、その軌跡をなぞってみたいと思います。

・1939年 リトアニアのカウナス日本領事館に領事代理として赴任。
・1940年夏。ポーランドを追われてきた大勢のユダヤ人避難民が、リトアニアの日本領事館に殺到。
 彼らは、ソ連・日本を経由して第三国に移住しようと日本通過ビザを求めてきてのことだった。
・要件を満たさないユダヤ人避難民にも人道上ビザの発給を認めるよう外務省に再三の願い出を行う。
・しかし、日本側は非合法難民へのビザ発行を禁止する指示を伝達。
・当時の杉原の心境はこう記録されている。
 「最初の訓令を受理した日は、一晩中私は考えた。考えつくした。
  訓令を文字通り民衆に伝えれば、そしてその通り実行すれば、私は本省に対し従順であるとして、ほめられこそれ、と考えた。
  仮に当事者が私でなく、他の誰かであったとすれば、恐らく百人が百人、東京の訓令通り、ビザ拒否の道を選んだだろう。
  それは何よりも、文官服務規程方、何条かの違反に対する昇進停止、乃至、馘首が恐ろしいからである。
  私も何をかくそう、訓令を受けた日、一晩中考えた。
  ・・・果たして浅慮、無責任、我無者らの職業軍人グループの、対ナチス協調に迎合することによって、全世界に隠然たる勢力を擁する、ユダヤ民族から永遠の恨みを買ってまで、旅行書類の不備、公安配慮云々を盾にとって、ビザを拒否してかまわないのか。
  それが果たして、国益に叶うことだというのか。苦慮、煩悶の挙句、私はついに、人道、博愛精神第一という結論を得た。
  そして私は、何を恐れることなく、職を賭して忠実にこれを実行し了えたと、今も確信している。
・こうして悩んだ末に独断で発給を決断。
・領事館は既に閉鎖が決まっていたが、出国直前までの約1カ月間、発給を続けた。
・ビザの発行枚数は公式記録にあるだけで2139枚であるが、途中からその発行記録も止めて、ひたすらビザ発行に専念していたため、最終的には6000人以上のユダヤ人にビザを発行したと推定されている。

・これと並行し、日本側では外務省アメリカ局からの要請で、当時無効とされたポーランドの旅券に代わる臨時の旅券(ナンセン旅券)の発行を認めている。
・揺れ動く国際情勢の中で、数百万の国籍喪失者がこの旅券を使い安全地帯に逃れて行ったのである
・杉原氏は、この仕組みを利用してビザを発行していた。
・また、難行苦行の末にシベリアを横断しウラジオストックに到着した杉原ビザ保有のユダヤ人難民に対し、ウラジオストク領事に杉原氏の同窓生、根井三郎氏が存在していた幸運も作用する。
・根井氏は、杉原ビサの紛失者に再発行したり、条件不備のユダヤ難民への渡日乗船のための検印押捺を禁止するという外務省からの厳命に対してこれを斥け、独自の判断で難民たちを敦賀行きの船に乗船させた。
・この紛失者にも、というのがミソで、ウラジオストックにたどり着いた総勢15,000人にも上るユダヤ人のすべてにビザを発給したことになる。

・敦賀上陸後のユダヤ人達には、更に幾つかの幸運が訪れる。
・杉原ビザの有効期限が10日間であったため、ユダヤ人の代表がユダヤ教の研究者であり信者である小辻節三氏を尋ね、日本滞在延長への協力要請を持ち掛けた。
・小辻氏は、ユダヤ避難民の救出(オドポール事件が有名)にあたっていた外務大臣松岡洋右氏に直訴し、非公式にその問題を解決する。(入国特許のゴム印を作らせ、無制限に延長許可を繰り返せるようにした)
・ボロをまとうような姿で敦賀に上陸したユダヤ人難民に対しては、住民が温かい飲み物や食べ物をふるまい、次の亡命地への宿泊施設を神戸に設け、また日本滞在中には本当に手厚いもてなしを行いました。
・その後、ユダヤ人達は神戸からアメリカへ、イスラエル(英領パレスチナ)へ、または香港、上海へと無事に安住の地を求め旅立っていった。

・杉原氏はその後、チェコ、ルーマニアなどで勤務し、46年に帰国。翌年、外務省を退職した。
・訓令違反のビザ発給を理由に退職に追い込まれたとの思いから、退職後は外務省関係者との交流を断つ。
・1940年当時にリトアニアのカウナス日本領事館で杉原氏と交渉を行っていたニシェリ(B.GehashraNishri)は、1968年に杉原氏をようやく見つけ出し、イスラエル参事官として面会。
・当時のやり取りが残されている。
 ”参事官は「私のことを覚えていますか?」と尋ねた。
  杉原氏は記憶の無い人物であったので「申し訳ありませんが・・・」と答えたところ、参事官はボロボロになったビザを取り出す。
  みるみるあふれてくる涙をぬぐいもせず「あなたは私のことを忘れたかもしれませんが、私たちは片時たりともあなたの事を忘れたことはありません、28年間あなたのことをさがしていました。やっと、やっと会えました」”
・1969年、杉原氏はイスラエルに招待、出迎えたのは当時に同じくビザ発行の交渉を杉原氏と行っっていたバルハフティック宗教大臣(A.Dr.ZorachWarhaftig)。
・バルハフティックはこのとき、あの杉原ビザの発行が日本政府の意思ではなく杉原が独断で外務省訓令に逆らって発行したこと、さらにそれが原因となって杉原が外務省を辞職せざるを得なくなったことを知る。
・後のインタビューで、バルハフティクはこう語っている。
 ”実際には、日本政府の許可なしであったことを私たちが知ったのは、1969年に杉原氏とイスラエルで再会した時である。
  杉原氏が訓命に背いてまで、ビザを出し続けてくれたなんてことは、再会するまで考えられなかったので、とても驚いたことを覚えている。
  杉原氏の免官は疑問である。日本政府がすばらしい方に対して何もしていないことに疑問を感じる。
  賞を出していないのはおかしい。表彰していないのは残念である。
  杉原氏を支持している方は多くいるが、私は20年前から、日本政府は正式な形で杉原氏の名誉を回復すべきだといっている。
  しかし日本政府は何もしていない。大変残念なことである。
  —1998年5月25日のエルサレム郊外でのインタビュー”
・こうして「命のビザ」のエピソードが知られるようになったのである。
・杉原氏の発見とそれに引き続く事件の真相の判明はユダヤ人たちに大きな衝撃と感動を与え、杉原氏は多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では初で唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞。
・「ヤド・バシェム賞」においては、ゴールデン・プレート(これはユダヤ民族で世界に偉大なる貢献した人物もしくはユダヤ人が忘れてならない恩恵を与えてくれた人物の名を刻んだプレート)にモーゼやメンデルゾーン、アインシュタインと並んでその名が刻み込まれている。
・1986年(昭和61年)7月31日、杉原千畝氏は86歳でその生涯を閉じる。
・外務省も1990年代に入ってから当時の経緯の検証など「関係修復」に向けて動き、2000年に河野洋平外務大臣が遺族に謝罪した。
・当時の演説内容が残っている。
 ”これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。
  日本外交に携わる責任者として、外交政策の決定においては、いかなる場合も、人道的な考慮は最も基本的な、また最も重要なことであると常々私は感じております。
  故杉原氏は今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。
  私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です。
  —2000年10月10日の河野洋平外務大臣による演説”

晩年やっとわずかな日本人にこの事実が伝わっても、杉原氏自身はこうした功績を人に語ることを嫌がっていたそうです。
そうした中、再三ビザ発給の動機を尋ねたとき、杉原氏は死の前年にこう答えたと記録されています。
”あなたは私の動機を知りたいという。
 それは実際に避難民と顔をつき合わせた者なら誰でもが持つ感情だと思う。
 目に涙をためて懇願する彼らに、同情せずにはいられなかった。
 避難民には老人も女もいた。
 当時日本政府は一貫性のある方針を持っていなかった、と私は感じていた。
 軍部指導者のある者はナチスの圧力に戦々恐々としていたし、内務省の役人はただ興奮しているだけだった。
 本国の関係者の意見は一致していなかった。
 彼らとやり合うのは馬鹿げていると思った。
 だから、返答を待つのはやめようと決心した。
 いずれ誰かが苦情をいってくるのはわかっていた。
 しかし、私自身、これが正しいことだと考えた。
 多くの人の命を救って、何が悪いのか。人間性の精神、慈悲の心、そういった動機で、私は困難な状況に、あえて立ち向かっていった”

私は、杉原千畝氏や根井三郎氏、小辻節三氏、松岡洋右氏の中に、武士道の心を見るのです。
・広い心を持ち
・廉直高潔で
・多くを語らず
・言い訳もせず
・分かる人だけが分かってくれればいいという考え方を持ち、
・自分の家族や将来を犠牲にしてまでも、自分が正しいと思ったことを良心に従って行動に移す。

2015年、まだまだ耐え忍ぶことも多い中、少しずつ未来への萌芽が芽吹きつつある年。
偉大なる先人を手本としながら、一歩一歩を大切に生きたいものですね。

45697841004811703073