古事記伝より学ぶ!本居宣長が問い続けた”日本とは何か”!

『古事記伝』(記伝)は、江戸時代の国学者・本居宣長が35歳頃から35年をかけて書き連ねた『古事記』全編にわたる全44巻の註釈書です。
第1巻では、『古事記』と言う本の価値を明らかにし、『日本書紀』等の本との比較、書名、諸本、研究史、また解読の基礎となる文体論、文字や訓法について書き、宣長の古道についての考え方を述べた「直毘霊(なおびのみたま)」、第2巻は序文の解釈と系図に始まります。
以降第3巻から第44巻が本文とその訓読・注釈で構成されてるのですが、そもそも宣長はなぜこのように長い歳月をかけてまで註釈書を残したのでしょう。
実は『古事記』を記された当時は平仮名も片仮名もまだ発明さえておらず、全文漢文とその当て字で書かれていました。
しかも宣長の時代まで、読解自体も難解で読み下し文や研究書すら存在していなかった訳です。
そんな中で書かれた訓読・注釈書は、本来は外へ主張する声をもたない古来から伝わる日本人の美点、道なき道、その源流を、原則を破って外へ主張しようと試みた書とも捉えることができるのです。

ここで注目すべきは、本居宣長という人物は時代の桎梏や固定観念から距離をとった自由の人であり、価値の枠組を転換した変革者だということです。
向学心を常に抱いていた33歳の時、伊勢参宮に訪れた加茂真淵と松坂の旅籠で面談し、翌年には誓詞を提出して弟子となるのですが、真淵の教えは「からごころ(=儒教的思想)を清く離れて古のまことの心を訪ね知ること」の大切さであり、その言葉は『古事記』を解明したいという宣長の意思を強く後押しし、古学へと向かわせていったのです。
当時の宣長は『源氏物語年紀考』を著し、物事の本質を深く捉える心の構えとして主客一体の感情の移入、共感が大切だという境地に至り、『源氏物語』の持つ文芸観以上にその人間世界を貫く「もののあわれ」を見出していました。
しかし、この深く人間社会に踏み入る心の在り方「もののあわれ」から、当時まで誰も踏み込まなかった古事記、古道という方向に大きく舵を切るのには、相応の理由があった訳です。

そもそも「もののあわれ」を知る心とは、江戸幕府とそれを支える価値体系である儒学によって権威つけられた規範を超えようとする美意識ともいえるのですが、そうなるとその先に儒教による規範を超えた変わらざる価値「古の道」が必要となってきます。
百数十年以上続く鎖国の時代の中で、文化的に依存し続けてきた中国からの自立の機運が満ちており、また当時の日本の歴史は神武天皇に始まり、古事記は対象外であったという背景もあります。
そうした中、孔子・老子に端を発する儒教思想からの呪縛を超え(=からごころからの脱皮)、日本古来の冷静な自覚・相対感覚とその原点を見つめ直すという思いが、加茂真淵との邂逅により宣長を古事記に向かわせたのです。
宣長が探求の中から示したのは「日本の限りない肯定とその特質の主張」であり、その価値を体現する存在としての天皇の復権・親政に光を見出すことであったのですが、これは幕末討幕の思想へと続く国学のきっかけでもあった訳です。
時代の桎梏の中で、本居宣長という人は生涯”日本とは何か”を追い続け、歴史の分岐点に大きな足跡を残していったのです。

宣長が「皇大御國(すめらおおみくに)」の一語をもって『古事記伝』の序「直毘霊」を書いた理由はそこにあります。
宣長は、日本人のおおらかさと鷹揚な生き方、太古から本来備わっている人としてのあり方、自然への崇敬と謙虚の念といった日本人に特有のものを、再発見し、見つめなおして貰いたいという思いの人だったと感じるのです。

そもそも日本人の良さは、あえて言霊にして強烈にアピールするようなものではなく、理を尽くして説かないことに美徳を感じています。
それは、日本の根底にある目にみえない秩序であり、人の真心、和、常識、素朴さ、虚飾や作為・悪意の無さ、無理や見得を張らず慎ましく生きること、精錬として美しく生きること、といったようなもので、これを明確に概念化したり、ルール化したり、論理化したり、ましてや宗教的な形で定義したりすることはできないものです。
こうした日本人の持つ特性なき特性とでも言うべき性質、言葉だけで論理化できないものを、私達はこれまでも大切にし、守っていかねばなりません。
しかしながら、こうしたことは対外的に、特に海外から見ると誤った捉え方をされ、理解されず、明確な定義もないため、結果として声高に説明しないためにあらぬ誤解を受け、国際的な問題を引き起こしたりする訳です。
しかし、世界が狭くなりボーダレスとなる21世紀においては、必然的に自らを主張していかねばなりません。
それは、初めはなかなか理解することが難しい相手との距離を詰め、互いを理解する手段として必要なことです。

日本人としての美徳を主張すべきことではないと捉えるのではなく、きちんと説明し相手に伝えること。
しかも、きちんと相手を理解し、認めること。

宣長は『古事記伝』の中で儒学の合理性、学問的体系性や説得性を認めた上で、その虚しさと日本人との違いを述べています。
現代に宣長が蘇れば、きっと欧米や近隣諸国の合理性や学問の体系性、説得力、理論的緻密さといったものを理解し認めた上で、日本の徳性と美徳、在るべきことを述べるはずです。

こうした宣長の姿勢に、現代の私達は学ぶことがあるのではないでしょうか。
ご一考ください。

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現代語訳にてこのようなサイトもあります。
『古事記傳』(現代語訳)

以下、参考までに読み下しと口語訳の一部です。

『古事記伝 第1巻』
・『古事記』の価値
・『日本書紀』等との比較
・古道についての考え方「直毘霊(なおびのみたま)」

古記典等総論

 前代の故事(歴史)を記した書は、いつごろからあったのだろうか。書紀の履中天皇の巻に「四年秋八月、始之於2諸国1置2国史1記2言事1(はじめてクニグニにフミビトをおき、コトワザをしるす)」とあるのを見ると、朝廷にはこれ以前から史官がいて、記録が取られていたことが分かる。しかしそれは当時起こったことを記したのであり、前代のことを書いたかどうかは分からないが、当時のことを書いたのであれば、昔のことにもそれなりに文中で触れていただろうから、その頃からあったのだろう。そのため、書紀が編纂された頃には古記も多くあったことと思われる。小治田(おはりだ)の宮(推古天皇)の御代、二十八年に、聖徳太子が蘇我馬子と協力して、「天皇記および国記、臣(オミ)連(ムラジ)伴造(トモノミヤツコ)国造(クニノミヤツコ)百八十部、また公民等本記」を作ったと書紀にある。これが史書編纂をはっきり記録した最初であろう。また飛鳥浄御原(あすかキヨミハラ)の宮(天武天皇)の御代十年に、川嶋皇子等十二人に詔(みことのり)して、帝紀および上古の諸事を記定させたとある。しかしこれら二つの文書は失われて、現在伝わっていない。だが平城宮(ならのみや)の御宇、天津美代豊国成姫天皇(元明天皇)の御代、和銅四年九月十八日太朝臣安萬侶(おおのアソミやすまろ)に詔して、この記(古事記)を撰録させたそうで、同五年、正月二十八日に完成して奉ったと序文にある。したがって、現在伝わる古記の中では、この記が最も古いことになる。日本書紀は、同じ宮の高瑞浄足姫の天皇(元正天皇)の御代、養老四年に出来上がったと、続日本紀にある。すると古事記より八年遅れて出来上がったことになる。この記は文を飾らず、古言のままに、古い真実のありさまを伝えることにつとめたということが、序文にも見えており、またここでも以下に論ずるとおりである。それなのに、あの書紀ができてからは、世間の人々は書紀だけを尊び、古事記は名さえ知らない人が多い。なぜかといえば、漢籍を学習することばかり盛んに行われて、何事も漢風に装ったことをすばらしいと思うので、書紀が漢籍の史書に似せて書いてあることを喜び、記のすなおな書きぶりは、正しい(漢籍のような)史書の様子でないと思って、読みたがらなくなったのであろう。ある人は、この事情を怪しんで、「この記ができていくらも経たないうちに、また書紀を編纂させたのは、古事記に誤りがあるからではないのか?」と言う。私は次のように答える。「そうではない。記があるのに、また書紀を撰進させたのは、当時朝廷でも漢学を盛んに行い好まれたので、記のあまりにも飾り気ない書きぶりが、中国の史書に比べて見所のない浅薄なもののように思えたため、物足りなく思われて、もっと広く材料を集め、年紀をきちんと立て、中国の書物にあるような言葉を飾り添えて、文章も中国風に作り、中国の史書に似せたものに仕立てようと撰ばせたものであろう。その事情をもっと詳しく言うならば、まず川嶋皇子たちに詔して帝紀などを作らせたことは前述の通りであり、その後和銅七年にも紀朝臣清人三宅臣藤麻呂に詔して国史を編纂させたことが続紀に出ている。この二度の撰の中でも、川嶋皇子らの作ったのは、記の初めと同じく、飛鳥浄御原(天武天皇)の御代に違いないが、記の初めがそれより先であったか後であったかは分からない。もし川嶋皇子の撰が記に先立つものであったら、これもまた「諸家之所レ齎、帝紀及本辞、既違2正実1、多加2虚偽1(ショケのもたるトコロノていきオヨビほんじ、すでにセイジツにタガイ、おおくキョギをくわう)」と、この序文にあるような状況にあって、その撰もまた正実と違っており、虚偽を加えていたためでもあろうか。もしまた川嶋皇子の撰の方が後であるとすれば、いったん思い立たれた古事記のことも、その撰で十分であるはずなのに、「運移世異、未レ行2其事1牟(ウンうつりヨかわり、ソノコトいまだオコナワレズ)」と、序文にあることを考えると、両者には違った狙いがあったのだと思われる。どこが違うかというと、書紀は漢文的な潤色を加えて、中国の史書に似せてあり、記は過去の真実の様子を伝えようとしている。その意図は序文に明らかである。そういうわけで平城の御代に至って、その大御心(おおみこころ)を継いで、太安萬侶に詔してあの稗田阿礼の暗唱する歴史故事を書き留めさせたのである。次に和銅七年に撰上させたという史書は、またあの中国の史書に似せた潤色の書の方であろう。また養老四年に舎人皇子に命じて書紀を撰進させたとある。そもそもこのように相次いで史書の編纂を行わせたのは、それ以前の潤色された史書がいずれも不出来で、天皇の意に適わなかったからだろう。そのため、これらは当時早く廃れてしまい、現在に伝わらず、その名前さえ残っていないのだ。しかし書紀だけは出来映えが良かったので、国の正史と定められ、その後は改めて史書を撰ぶことはなかったのである。にもかかわらず、この記は書紀ができた後にも棄てられることはなかったらしいのは、以前の二つの史書のような潤色も施されず、ただいにしえの真実を伝えているからに他ならない。とすると、書紀が撰ばれたのは、記が誤っているからではない。元来その書の目的が違っているのである。もし記が誤っているという理由で書紀が撰ばれたのであったら、これもあの二つの史書のように早く廃れていたはずだが、その中で記だけが現在にまで伝わっているという事実を考えれば分かる。書紀ができても、なおそれなりに公に通用し、世間でも読まれていたと思われ、万葉集にもしばしば引かれている。また人が問うていうには、「川嶋皇子に仰せて撰ばせた史書のことは書紀にあり、和銅七年のと書紀(養老四年)のことは続日本紀に出ているのに、古事記についてはどこにも出ていないのは、この記の編纂は他の史書のように公に重視されたことではなく、内々に行われた小さな事にすぎないのではないか。また書紀の神代巻のように『一書に曰く』として取り上げられた多数の異説の中に、この記に見える説も出ているのを見ると、実際は古事記も数多ある一書の一つに過ぎないのではないか。それに対して書紀は、いくつもの異説をすべて載せており、少しも不足のないように完全を期した書物なので、記とは比べものにはならない。ならばこの記をどうして書紀と同等に尊ぶことができようか。」私は次のように答える。この記は書紀の一書の中の一つで、みな書紀に含まれ、書紀の方が内容が完備している、という議論は以前からある。実際書紀は史料が広く蒐集されていて、紀年も何年何月と明確であり、不足のない史書なので、記がそれに及ばないところが多いことは言うまでもない。だが、そうではあるが、記の方が優れている点もある。上代に書物というものがなく、ただ人が口から口へ語り伝えたものであれば、決して書紀の文のようなものでなく、この記の言葉のようであっただろう。書紀はとにかく中国の史書に似せようとして文を飾っているが、記はそうしたことに関係なく、ただいにしえから伝わる言葉をそのまま伝えようとしている。そもそも意(こころ)と事(こと)と言(ことば)とは一致しているはずのもので、上代は意も事も言も上代、後代は意も事も言も後代、中国は意も事も言も中国であるが、書紀は後代の意に基づいて上代の事を記し、中国の言を用いて皇国(みくに)の意を表そうとしたため、一致しない点が多いのに、古事記は少しもさかしらの作り事を加えず、昔から言い伝えたままに記録されたものなので、その意と事と言がしっくりと適合していて、みな上代の真実である。これはもっぱら上代の言葉をもって書かれたからだろう、すべて意も事も、言をもって伝えるのだから、「書」というものは、そこに記された言辞こそ主体となる。書紀は漢国の文を意図して書かれたため、皇国の古い言葉のあやは失われていることが多いが、この記は古言のままなので、上代の言の文も極めて美しい。であれば、たとえ書紀の一書の中の一つで、重要な公の史書でないとしても、尊ぶのが当然であるが、ましてこの古事記は浄御原宮の御宇の天皇(天武天皇)の大御心から起こり、ふたたび平城の大御代の詔勅によって書かれたのであってみれば、決して軽々しい私の(プライベートの)書ではない。それらを考え合わせると、ますます尊ぶべき本は古事記であると思う。そのようなものなのに、かつて漢学のみ盛んに行われて、天下の制度も漢に似たように定められて来たので、こうした書物までがひたすら漢の書物に似せて書かれたのを喜んで、これこそ主流とし、上代の真実なことも傍流におかれて、まるで私の(プライベートな)もののように扱われてしまった。おそらくそのせいで、古事記撰上のことも、書紀などには載せられなかったのだろう。それ以後はますますその考え方になって、(古事記を)取って見ようという人もまれになり、世間の物知りたちは、これを正しい国史の体を成していないとして、なおざりに思ってきたのはとても残念である。そもそも皇国の古い国史というものは、これらの書物の他には伝わっていない。その叙述方法や前例は、漢の書物に習わざるを得ないので、形が完備しているというのも、漢の史書に似ていることを喜んで言うのである。もし漢にへつらう心さえなければ、漢の書に似ていないからといって、何も問題はないだろう。万事漢を主体としていい悪いと判断する、世人の習慣こそおこがましい。私の先生である岡部の大人(うし)は、東国の遠朝廷(とおのみかど:江戸)のもとで、古学を導入されて以来、千年以上の長い間、人々の心の底に染みついた漢籍意(カラぶみゴコロ)の醜さを少しずつ理解する人も出て来て、この記の尊さを世人も知るようになったのは、学の道において、神代以来ならぶものもない大人の功績である。宣長はそのおかげでこのことを知るようになり、年月を経る間に、いよいよ漢意の汚いことを知り、上代の清らかな真実がよく見えてきたので、この記をあらゆる書物の中の最上の書と考え、書紀をこの下に置くものである。仮にも皇国の学問を志すものは、このことを決して思い違えてはならない。

書紀について<書紀の論ひ(アゲツラヒ)>

 古事記について論ずるにあたり、書紀について論ずるのはなぜかと言えば、昔から世人は書紀だけを尊んで、物知りな人も書紀を読むことに一生懸命で、神代巻などについては、やかましいほど多くの注釈書も書かれたのに、この記はなおざりにして、注意に値するとも思っていない。その理由は、漢籍のみをありがたがって、大御国(おおみくに)のいにしえの心を忘れ果てているからである。そこでその漢意(からごころ)の迷妄を悟らせ、古事記の尊い理由を明らかにして、皇国の学問の道しるべにしようと思うのである。まず書紀は潤色が多いことを知って、その撰述の目的を知るのでなければ、漢意に囚われた心の病を取り除くことはできず、そのことを知った上でなければ記の良さは知りがたく、それを知らないでは古学の正しい道は知ることができないからである。さてその論というのは、まず『日本書紀』という書名こそ理解できない。これは漢の国の「漢書」「晋書」などという書名をまねて、御国の名を付けたのだが、中国は王朝がたびたび入れ替わったので、それぞれその国の名を付けなければ分かりにくいからそうしているのである。だが皇国は、天地の遠く長い昔から、天津日継(あまつヒツギ)続いていて、王朝が変わったなどということがないので、「何々の国の歴史」という必要がない。国号を掲げるのは、他の国号があるときだけである。いったい、何に対して「日本」と言うのだろうか。ただ漢(から)国に対して言っているのであって、漢にへつらった書名と思われる。それなのに、後代の人がこれをいかにも尊いように思っているのはなぜだろうか。私には妙な、いかにも辺国が大国にへつらった書名のように思われる。さて、その叙述の様子は、もっぱら漢籍に似せようと務めた結果、意(こころ)も詞(ことば)も漢風の飾りばかりが多く、人の言語、物の実態まで、上代のそれとは違っていることが多い。まず神代巻のはじめに、「古天地未レ剖、陰陽不レ分、渾沌如2鶏子1云々(イニシエにアメツチいまだワカレズ、メオわかれざりしとき、マロカレタルことトリノコ<卵>のごとくして)」、「然後神聖生2其中1焉(シカリしてのちに、カミ、そのナカにあれます)」とある。これは漢籍の文をあちこちから集めてきて、適当に組み合わせたもので、編纂者の私説にすぎず、決して古くからの言い伝えではない。次に「故曰開闢之時、洲壌浮漂、譬猶3游魚之浮2水上1也云々(カレいわく、アメツチはじめてヒラクルときに、クニツチのうかれタダヨエルこと、たとえばアソブイオのミズノウエにうけるがごとし)」という。これこそいにしえの伝えであろう。「故曰」とあるので、それまでの文は新たに加えた潤色だと分かる。そうでないなら、この「故曰」の二文字は何の意味だろうか。初めに述べられたのは、その趣がすべて小賢しく、疑いもなく漢籍からの借り物であって、絶対に皇国の上代の心に合っていない。いにしえをよく考えるならば、自然と分かることである。そもそも天地の初めの様子は、本当に古い伝説の通りのはずなのに、どうしてうるさくひねりまわした異国のさかしらな説を借りてきて、まず初めに記述したのだろうか。およそ漢籍の説は、天地の成り立ちなど、あらゆることに凡人の浅はかな推測を当てはめて作り上げたものである。この点、いにしえの真実の伝えにはそういうことはない。誰が言いだしたともなく、ただ非常に古い頃から語り伝えたままを伝えるのである。これらを比べると、漢籍の方は理論的に深いように聞こえ、いかにもそれらしいが、我が国の古い伝えの方は精緻な理論もなく、考えが浅いように聞こえるので、みんなが漢籍の方に惹かれ、舎人皇子をはじめ、世々の識者も、それに惑わされてしまっている。その理由は、およそ漢籍の説は賢い昔の人たちが、あらゆることを深く考え、理論的に考察して、自分も人もその通りだと納得するように造り定め、賢い文章で巧みに書いておいたものだからである。だが人間の知性は限りがあり、世界の本当の真理はとうてい分かるものではない。この世の初めがどうであったか、どういう理由でこの世が生まれたか、推測できるものではない。こういう推測は、ごく最近のことさえ大きく間違っていることが多いのに、理屈さえ通せば天地の始めからおわりまで、すべて推し測ることができると思うのは、たいへん身の程知らずと言うべきで、人間の知性には限りがあって、本当の真理は測り知れないことが分かっていないのである。すべて「理にかなっている」というだけで物事を信じるのは誤りである。「理にかなっている」という判断も、凡人には正しくできない。そのことを説くのも凡人、信じるのも凡人であったら、どうして本当に良いか悪いか、判断できるだろう。中国でおおげさに言われる聖人などという人でも、知恵にはなお限りがあって、至らないことが多いのに、それより知恵の遅れた人たちが書き残したものなどは、どうして信じ得ようか。それなのに、世の識者たちがそうした憶測の説にだまされて、このことを悟らず、書紀の潤色の部分をさえ、「道の旨(むね)」だと思っているのは、大変浅ましいことである。書紀の最初の部分は、ただ飾りとして加えた、序のようなものとして見過ごしにするのが妥当である。次に「乾道独化、所以成2此純男1(アメのみちヒトリなす、このゆえに、このオトコノカギリをなせり)」、また「乾坤之道相参而化、所以成2此男女1(アメツチのミチ、アイマジリテなる。コノユエニこのオトコオミナをなす)」とある。これらも撰者の考えで新たに作ったさかしらの文である。「乾坤(天地)」などという思想は皇国にはなく、それに相当する古言は存在しない。古い言い伝えでないことは明らかだ。もし古い伝えであったなら、ただ「天地之道」と言うはずである。もっとも、これは「天地」を「乾坤」と言ったので、文字が換わっているだけとも言え、まだ許されるけれども、この神たちを、その「乾坤之道」によって生まれたかのように書いているのは、非常な誤りである。この神たちも、高御産巣日(たかみむすび)神と神御産巣日(かみむすび)神の御霊(みたま)によってこそ、お生まれになったのであろう。そのようにしてお生まれになった事情は、どうにも測り知れないものなのに、いかにも賢げに「乾坤之道」などと書いているのは、漢意によった造りごとに違いない。また伊邪那岐(イザナギ)神を陽神、伊邪那美(イザナミ)神を陰神と書いて、「陰神先発2喜言1、既違2陰陽之理1(メカミまずヨロコビのことばをアグ。すでにメオのコトワリにたがえり)」などというのも、漢意に基づく誤りである。およそ世の中に、陰陽の理などというものはない。元来皇国にまだ文字がなかった時代に、そんなことがあるはずもないので、古い言い伝えには「男神、女神」「女男(めお)之理」ということならあったかも知れないが、このように改めて書いたのは、単に文字面が違うだけでなく、非常に学問の妨げとなることである。なぜなら、なまじ漢学の素養のある人は、この文を見て、「伊邪那岐命、伊邪那美命という神は、仮に名付けたものであって、実は陰陽造化のことを言う」などと解釈し、あるいは漢文の『易経』を引いて、陰陽の理論をもって説明しようとするので、神代のことは、すべて造り事だという話になり、いにしえの伝説は何もかも漢意で説明されて、真実の道は立てられなくなってしまうからだ。そもそも書紀の撰者は、そこまでのことは思わず、ただ文章を漢籍に似せて飾り立てただけであろうが、この文が後代に至って、こうしたさまざまな邪説を生むきっかけとなって、真実の道が見えにくくなった根本的な原因である。しかしながら、この「陰陽の理」というものは、はるかな昔から、世の人々の心に深く染みついていて、誰もがそれを天地自然の原理であって、あらゆるものごとは、この理を離れては存在しないと思っているだろう。それこそ漢籍に惑わされた考えである。漢籍を基準に考える思考方法を棄てて、よく現実を見れば、天地はただの天地、男女はただの男女、火と水はただ火と水にすぎず、それぞれの性質、形状はあっても、それらはみな神の仕業なのである。その理由と原因は、極めて深く霊妙であり、人間の測り知られるところではない。それなのに漢国の人の癖として、賢げぶった浅はかな心で、万物の理を強いて求め、この「陰陽之理」ということを造り言い立てて、あらゆるものがこの理に従っているように、話を作ったものである。それは元来賢い人がよく考えて作りだした思想であり、十のうち六つ七つは当たることもあるので、世の人々はみなそれを信じて疑うこともないのだが、その『陰陽』は、またどうして陰陽となったのかというと、もうその根本の生成原因は分からない。(すべての生成の根本原因として)太極、無極などと言われることもあるが、それはまたどういう理由で太極、無極となったのかといえば、もうその先の本当の生成原因は結局分からないのだから、実のところ陰陽も太極無極も、何の役にも立たない無駄ごとであり、ただ人知の推測できる範囲にある事柄の小さな理屈付けに、あれこれ名前を与えただけのことだ。そもそも天照大御神は日(陽)の神であって女神(陰神)、月夜見(つくよみ)命は月(陰)の神であって男神(陽神)であらせられる。これを見ても陰陽の理が真実の理に合わず、いにしえの伝えと異なることを知るべきである。それをなお陰陽の理に拘泥して、かえってこれをそれに適合させようと曲説する(天照大神を男と主張するなどの)説は、全く取るにも足りない。また美都波能賣(みずはのめ)神を罔象女、綿津見(わたつみ)神を少童などと書いてあるのも、漢にへつらった書き方で、見苦しい。その結果、神武の巻に至っては、天皇の詔として「是時運属2鴻荒1、時鍾2草昧1、故蒙以養レ正、治2此西偏1、皇祖皇考、乃神乃聖、積レ慶重レ暉(コノときに、ヨ、アラキにあい、トキ、くらきアタレリ。カレ、くらくしてタダシキみちをヤシナイテ、このニシノほとりをシラス。みおや、カミヒジリニシテ、よろこびをツミひかりをカサネテ)」(東征の初めに当たって述べた詔勅)とあるなど、意味も言葉遣いも、全く上代の姿でない。もっぱら潤色のために撰者が作った文である。崇神の巻に、「詔曰、惟我皇祖諸天皇等、光2臨宸極1者、豈為2一身1乎云々(みことのりしてノタマワク、これワガミオヤ、もろもろのスメラミコトタチ、あまつひつぎをシラシシコトハ、あにヒトハシラノみためナランヤ云々)」、「不2亦可1乎(またヨカラザランや)」、これも同様だ。およそ書紀のある古い時代の詔詞はこのたぐいで、特に上代の各巻にあるのは、潤色のために造り加えたものと思われる。そのため、どうにも古い言葉が正しく読めなくなっている。その他も推して知るべきだ。続紀(続日本紀)には、古語の詔と漢文で書いた詔を、別に書いてある。それを見ると、平城の時代に至っても、古語の詔詞には、漢文めいた言葉遣いが見られない。まして上代の言葉は、そうした古語の言葉遣いに似て、さらに古い言葉だったと推測される。それなのにこの書紀の詔詞は、古めかしいところは少しもなく、ひたすら漢文に似せてある。また神武の巻に、天皇の言葉として「戦勝而無レ驕者、良將之行也(たたかいカチテおごることナキハ、いくさのきみのシワザなり)」とある。およそこのようにさかしげに漢文めいたことは、すべて潤色であると思われる。すべて言葉というものは、その時代時代の言い振りがあって、人の行いや心にかなっているはずだが、書紀の人の言語が、上代の人々の行いや心に合っていない点が多いのは、漢文的な飾りが過剰だからである。また同じ神武の言葉として、「今我是日神子孫、而向レ日征レ虜、此逆2天道1也(イマわれはヒのカミのウミノコにして、ヒにムカイてアダをうつは、これアメツチのミチにサカレリ)」、また「獲2罪於天1」などとある「天」は、ほとんどが漢意の天であって、いにしえの人々の心とは違っている。なぜかと言えば、天はただ空の上にあって、天の神がおられる御国だというだけのことで、心も魂もあるものではない。ならば天の道などというものはなく、「皇天之威」などというものもない。そこに罪を獲るはずもない。それをいかにも天に神霊(みたま)があるように言い、人の禍福も何もかも、その仕業であるというのは漢の国のことで、全く誤りである。ひたすら漢文に似せようとするから、こうした誤りが起こる。後代の人はまた漢籍のような考え方に惑わされているから、この違いが分からず、これらの文を見ると、逆に「天つ神というのは仮の名で、実は天のことだ」などと考えてしまうので、大いに学問の妨げとなっている。綏靖の巻に、「天皇風姿岐嶷、少有2雄抜之気1、及レ壮容貌魁偉、武芸過レ人、而志尚沈毅(スメラミコトみやびすがたイコヨカナリ、おさなくしてオオシキいきさしマシマス、おとこざかりにイタリテみかたちスグレテたたわし、タケキワザひとにスギタマウ、しかしてミココロザシおごごし)」と言い、崇神の巻には「天皇識性聡敏、幼好2雄略1既壮年寛博謹慎云々(スメラミコトみたましいサカシ、わかくしてオオシキコトをこのみたまう、スデニおとこざかりにしてヒロクつつしみて)」などと言うのも、古い伝えを漢字に写して書いたものでない。上代の伝えは、ただ天皇の行われたことを語るだけであり、ここに書かれたことはただ撰者が飾りに付け加えたものと思われる。また應神の巻に、淡路島のことを「峯巌紛錯、陵谷相続、芳草薈蔚、長瀾潺湲(タケいわおマヨイまじりて、オカたにアイつづけり、コウバシキくさシゲクもくして、タカキなみソソギながる)」、雄略の巻にも馬を賞めて「カク(獲のけものへんをさんずいに置き換えた文字)略而龍ショ(者の下に羽)、クツ(炎+欠)聳擢而鴻驚、異体峯生、殊相逸発(モコヨカにして、タツのごとくにトブ、アカシマにタカクぬけいでて、カリのごとくにオドロク、あやしきカタチかとくナリテ、ことなるカタチすぐれてタテリ)」とあるたぐいも、潤色が過ぎてたいへんうるさい漢文になっている。また神武の巻に「弟猾大設2牛酒1、以労2饗皇師1焉」、崇神の巻の「盍命2神亀1、以極致レ災之所由也」など、これらの文は潤色のため真実を失って、書紀解釈上の妨げとなっている。皇国では、上代に牛を食べたことはなく、また占いに亀の甲を用いたことはない。景行の巻で、倭建命の東国征伐のことむけに、「天皇持2斧鉞1、以授2日本武尊1曰、云々」とある。しかしいにしえ、こうしたときには矛や剣を賜るのが普通であって、斧鉞を賜るなどということはなかったのである。これも古事記に「給2比々羅木之八尋矛1(ひいらぎのヤヒロボコをたまう)」とあるのが本当なのに、無理に漢籍に似せようと「斧鉞」と書いたのである。形容詞などの言葉を飾るのはまだしも許せる事情もあるが、このように具体的な物まで別物に置き換えてしまうのは、やり過ぎではないだろうか。他にも同様の部分は多い。書紀を読む人はよく注意すべきである。また継体紀で、まだ越前の三国におられたとき、臣連たちが相談して天皇の位にお迎えしようとしたところ、お断りになって、「大男迹天皇、西向譲者三、南向譲者再(オオドのスメラミコト、ニシにむかいてユズリたまうことミタビ、ミナミにむかいてユズリたまうことフタタビ)」とあるが、いにしえには、そうしたことは行われなかった。このあたりの文は、すべて漢籍の文をそのまま取ってきたものだ。そもそもこうした人の行いまでも造り飾り立てて、漢籍に似せたのは、どうした目的からだろうか。また綏靖天皇元年に、「春正月壬申朔己卯、云々」「尊2皇后1曰2皇太后」とあるのも、上代のありさまではない。なぜかというと、上代に「大后」とはその時の正后のことを言い、大御母(おおみはは)命のことは大御祖(おおみおや)と読んだのである。これと同じく、皇后のことを、次の代になって皇太后と号したというのも、上代の様式でない。大御母命は、最初から大御親(おおみおや)に決まっている。すべてこのような御号をはっきりと改めるようなことは、漢国のことである。その上「某年月日」と月日まで記したのは、いよいよ漢風である。こうした上代のことに月日を言い立てるのは、別に論ずる。書紀について論ずべき点はまだ多く存在するが、今はただ漢籍に借りた潤色が多く、古学の妨げとなっていることを、いくつかの例を引いて述べておいたのである。これらと同類の言葉は、これに準じて分かっていただきたい。漢意の文章は、いかにも理が深いように聞こえて、人の心に訴えかけ、惑わせるものなので、書記を読む人は、このことによく注意しなければならない。
○書記を読むことはなかなか困難である。なぜかと言うと、まず上述のように、漢籍に借りた潤色が多いからである。これを書かれたままに読むには、字音も含めて漢文を読むように読むべきだと思われるけれども、また随所に訓注を付けて古言を書いた部分もあり、すべて漢文のように読むべきでもないようである。それなら完全に古言のように読もうとすると、そういう読み方ができない部分が多い。また文字の意味を考えて、あえて古言に置き換えて読もうとしても、言葉は皇国の言葉に置き換わっているが、文の連接や意味合いが、なお漢文のようになることが多い。だから全くの古言、古意に読むには、文にこだわらず、字も頼らず、全体の意味合いを考え、古事記や万葉の言葉遣いを参考に読むべきである。そうすれば、十字二十字も読み捨ててしまう部分が出てくる。ではあるが、今の世の人は、自然と今の世の人の考え方があり、上代の意や言を全く違えず、詳細に知ることは難しいものであるから、いろいろ工夫しても、日本語として美しく読むことはできない書物である。最近の本の訓は、可能な限り古言に近づけて訓じてあり、古言もその訓に残っていることが多い。しかし漢文風の潤色の部分などは、その文のままに、字を頼って読むので、もう古意ではなく、言葉の続き具合ももっぱら漢文の読み方である。このことを念頭に置いて読むことである。

旧事紀について(旧事紀といふ書の論)

 世に「旧事本紀」という十巻の本があるが、これは後代の人が作った偽書であり、聖徳太子命の撰んだ真の書ではない。といっても、全く根も葉もないことをひたすら造作したというものでもなく、古事記と日本書紀を取り合わせて造ったものである。そのことは一度読んでみればよく分かるのだが、なお疑問に思うなら、神代の事を書いた部分を、注意してみるといい。古事記と書紀の文を、元のままに取り混ぜて作ってあるので、文体が入り混じっている。木に竹を接いだような感じである。また古事記と書紀を二つとも採用して、同じことが重複している例もあり、非常にみだりがわしい。この記と書紀は、文体や物の名の文字さえ大きく違っているので、両方を混ぜれば、両者の違いが鮮明に露呈する。時々は古語拾遺からも取られており、これも元の文のままなので、違いがよく分かる。そして神武天皇以降のことは、もっぱら書紀の文を取り、ところどころ省略して書いてある。文が書紀と全く同じなので、明らかである。その上、歌はすべて省いてあるのだが、どうしたわけか神武巻だけは、歌も仮名遣いまで書紀とそっくり同じに書いてある。また某本紀、某本紀と各巻の名も、みな不適当である。およそ正しい書とは言えない。ただし第三巻の饒速日命が天から降られたときの事と、第五巻にある尾張連と物部連の系譜、第十巻の国造本紀については、他のどの書にもなく、全く新しく作ったようでもないので、現在は失われた古書から取られたのであろう。そうしたわけで、これらの部分については、今でも参考にされ、古代史を解釈する一助になっているのである。また古事記の現行本には誤字が多いが、旧事本紀に取られた文は、まだ間違いが少なかった原本に近い本から引用されたのか、今もたまたま正しく書かれたところがあり、その点でも助けになっている。しかしこれらを除いては無用の書である。

古事記の書名について(記題号=フミのナの事)

 「古事記」と名付けられたのは、「古い事を記した書」という意味である。書紀に飛鳥浄御原(あすかキヨミハラ)の宮(天武天皇)の御代十年に、川嶋皇子等十二人に詔(みことのり)して、「記2定帝紀及上古之諸事1」とある。この言葉は、「古事記」の書名と同じ意味であろう。この題号は、書紀のように国の名を言わず、ただ「古事」ということを前面に出しているあたり、意図が鮮明で貴い。異国のことを考えへつらうのでなく、ただ天地の極みである天つ神の御子の所知看食国(しろしめすオスくに)の歴史の他にないという心である。大御国の歴史を学ぼうとする者は、いつもこの意識を忘れないようにしたいものである。また各巻の分け方も、漢籍を真似ず、ただ上巻、中巻、下巻と名付けたのは、いかにも立派だ。日本紀は「夜麻登夫美(やまとぶみ)」と読むのだが、古事記は訓があるとは伝えられていない。撰者の意図も、音で「コジキ」と読めというところにあったかも知れない。だが「夜麻登夫美」の例に倣って、「布琉許登夫美(ふることぶみ)」と読みたいところだ。上巻は「迦美津麻伎(かみつまき)」、中巻は「那加津麻伎(なかつまき)」、下巻は「斯母津麻伎(しもつまき)」と読むべきだ。

(中略)

直毘霊(なおびのみたま)

【この篇では、「道」について述べる。】

 

皇大御国(スメラおおミクニ)は、かけまくもかしこき神の御祖先(みおや)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)がお生まれになった大御国であり、

万国に優っている理由は、このことだけを見ても明らかである。世界中どこでも、この大御神の恩恵を受けない国はない。

大御神は、その大御手に天つ璽(あまつしるし)を捧げ持たれて、

御代御代(みよみよ)に御しるしと伝え来られた三種の神器とは、これである。

万千秋(よろずチアキ)の長秋に、自分の御子がお治めになる国であると宣言され給い、そのままに、

天津日嗣(アマツひつぎ)の高御座(たかみくら)が天地のように不動であることは、ここで既に決まっていた。

雲の横たわるはるかな天空から、ひきがえるが到り付く地の果てまで、皇孫(すめみま)の命のお治めになる国と定まって、天下に荒ぶる神もなく、皇道に従わない人もなく、

<訳者注:ひきがえる云々というのは、古代に「ひきがえるは地の果てまで行く」という伝承があったことから来たらしく、祝詞にその言葉がある。>

幾万代を経ようと、誰が大皇(おおきみ)に背き得ようか。御代御代の間に、時折まつろわぬ穢れ多い人もあったけれども、神代からの古い約束通り、神威を表して、たちまち滅ぼしておしまいになったのだ。

千万の世の行く末までも、天皇は大御神の子孫であり、

御代御代の天皇は、天照大御神の子孫であらせられ、そのため天津神の御子とも日の御子とも申し上げる。

天つ神の御心を大御心(おおみこころ)として、

何事も自分だけの考えでさかしらに判断されず、ただ神代からの古い伝えによって行い治められて、もし疑いがあるときは占いによって神のご意志を確かめられる。

神代も今も変わらず、

天津日嗣(皇位継承)だけでなく、臣、連、八十伴緒(ヤソとものお)にいたるまで、氏姓を重んぜられ、各々の家業をあやまたず嗣がせられ、祖先神たちの世と少しもと変わらず、一つの世のように、神代のままに保ってこられた。

神に守られた安らかな国として、平安を保ち治めてこられた大御国であるから、

書紀の難波の長柄の朝廷(孝徳天皇)の巻に、「惟神者(かむながらとは)、謂2随神道亦自有神道1也(カミノミチにしたがいタマイておのずからカミノミチあるをいう)」とあるように、神の道にしたがうとは、天下を治める仕方が神代から伝えられてきたままに行われて、少しも自分の賢しらを加えられないことをいう。そのように神代と同じく、大らかに世を治め給えば、自然に神の道が働いて、他に求めることもないことを「自有2神道1」と言うわけである。そのため現御神(あきつミカミ)として大八洲国をお治めになることも、それぞれの御世の天皇の治世も、つまるところ神がお治めになることと同じなのである。万葉集に「神随(かむながら)云々」とあるのも同じ意味である。韓人が「神国」と申したのも、もっともなことである。

いにしえの大御世には「道」などと言挙げする(はっきり口に出して言う)こともなかった。

だから古言に、「神ながら言挙げせぬ国」とある。

道は現実の道であり、

「美知(みち)」とは、この記に「味御路(うましみち)」とあるように、「山路(ヤマヂ)」、「野路(ノヂ)」の「ヂ」に「御」を付けたものであって、実際の路のことである。上代には、これ以外の(抽象的な)道などというものはない。

物事の理屈やさまざまな教えにせよ、「何の道」、「かの道」などというものは、異国で言うことだ。

異国は天照大御神の国ではないから定まった主というものがなく、ありとあらゆる邪神どもが所を得て暴れ回り、人心も荒れ、行いが乱れて、国を乗っ取れば賤しい人物もたちまち国の主となる。だから上位に立つものは下臣に地位を奪われまいかと思い、下臣は上の隙に乗じて地位を奪おうと常に狙い、互いに仇を為し合うので、上古から国が安定しないのである。その中で、威力があり智恵も深くて、人を手懐けて国を奪い、あるいは人に国を奪われまいとすることばかり上手で、しばらくの間、国をよく治め、後世の模範となった人を、中国では「聖人」と名付けたのだ。乱世には戦いになるから、名将というものが出るように、国の風俗が悪く、治まりがたいのを強いて治めようと、世々あれこれとその方法を思い巡らし、それをずっと続けてきたために、そういう賢い人も出てくるのである。それなのにこの「聖人」なるものが、神の如く世に優れて、自然に飛び抜けた徳があると思うのは誤っている。そういう聖人たちが作って定めたものも「道」と言うようだ。それなら中国人の「道」というものも、ただ人の国を奪う方法と、人に国を奪われないための方法との二つに過ぎないようにも思われる。人の国を奪おうとすれば、すべてに心を砕き、苦しみに耐え、善行に努めて人を手懐けるため、聖人は真の善人のように見えるのだし、その作っておいた道の様子も、一見うるわしく、万人に満足の行くようにできているので、なかなか結構なようだが、実際には自分自身その道に背き、君主を滅ぼして国を奪ったわけだから、言っていることはみな偽りであって、本当は善人などではない。それどころか大変な悪人である。元来そのように人を欺く人が造った道だからだろうか、後世の人も、うわべでは尊重し従うかのように扱っているようだが、本当には一人も守りつとめる人がないので、国の助けにもならず、虚名ばかりが広まって、ついに世に行われることがなくなって、「聖人の道」は、むやみと人の行いをそしる儒者どもの、ただの騒がしいさえずりの種になってしまう。それなのに儒者どもの書いた「六経」などというものばかり尊重して、「中国は正しい道が行われている国だ」などと声高に言い合っているのは、非常な誤りである。このように「道」ということを人為的に作って定めたのは、元々正しい道が行われていなかったからであるのに、かえってすばらしく尊いことのように考えて言うのこそおこがましい。そもそも後人が、その道に従って行動しているというならともかく、それらしい人は世々一人も見当たらないことは、中国の歴史を見れば明らかである。さてその「道」とはどういうものかというと、「仁義禮譲孝悌忠信」などと口やかましい徳目をあれこれ作って、人を厳しく従わせようとするものらしい。そうであれば、後世の法律というものを儒者は「先王の道に背く」などというが、その「先王の道」もまたいにしえの法律ではないか。また「易」などというものを作って、非常に奥深いことのように言葉を飾り、天地の理をきわめつくしたなどと思っている。ただ世人を手懐けあざむくための偽りではないか。そもそも天地のことも、ただ神のしわざであって、極めて霊妙で人知を越えており、この世ならざるところからやって来るのであるから、限りある人間の知恵では測りようがないのに、どうして窮め尽くすことができようか。それを聖人の言うことであれば、何でも理の極みと信じ、尊んでいるのこそたいへん愚かなことである。その結果、聖人どもの言ったことに習って、後人が万事自分の浅知恵で推測するのは、中国人の癖である。大御国の学問をする人は、このことをよく考え、ゆめにも異国の説などに惑わされてはならない。あちらの国では、事ごとにあまり細かに注意して、あれこれと論じ定めようとするので、人の心もさかしらに悪くなり、かえって事をこじらせ、いよいよ国が治まらなくなるのであろう。ならば「聖人の道」は、国を治めるために作って、かえって国を乱す種になっている。何をするにも大らかにして事足りることなら、その方が良いではないか。皇国のいにしえは、そうした理屈をひねり回す教えも何もなかったけれど、国は下の下までも乱れず、天下は穏やかに治まって、皇位の継承は極めて古くから伝わって来た。かの異国の名で言えば、これこそ無上に優れた大道であって、実際には道があるゆえに「道」という言葉がなく、道ということを言わないけれども、道があるのである。それを大げさに言い立てるのと、そうでないのとの違いを思え。言挙げするとは、かの異国のように理屈を言い立てることである。たとえば才能でも何でも、優れた人は言い立てないけれども、生半可な出来の悪い連中は、かえって少しのことでもできたら大げさに言いふらして誇るようなものである。漢の国では、道が貧弱だから、かえって「道」と言えなくもない程度のことばかり声高に言うのである。儒者はそれを知らず、皇国を「道がない」と軽んずるのだ。儒者がそれを知らず、万事漢のことを尊いと思っているのはまだしも、我が国の智恵ある人までが、このことを知らないで、道というものがある漢国をうらやみ、無理にも「こちらにも道がある」と、ないことを言い立てて争っているのは下らない。猿どもが人を見て「毛がないのか」と笑ったので、人が「自分にも毛があるぞ」と、細かな産毛を無理に取り出して見せて、争っているようなものだ。毛はない方が尊いことを知らない、馬鹿者の所行だと分からないのだろうか。

しかしやや後になると、書籍というものが伝わって、読み学ぶことが始まって以来、その国の考え、言葉付きなどを習得して、いろいろなことにそれが入り交じる御世になり、大御国のいにしえの考えや言葉付きは、人々の生活から切り離して「神道」と名付けられた。それはかの外国の「道」に似て紛らわしいので神と言うのだが、またその言葉を借りて、こちらでも道と言うのである。

「神の道」と言う理由は、後に詳しく述べる。

そうして御代御代を経るうち、ますますその漢国の風習や考え方を尊び学ぶことが盛んになって、ついには天下を治めるやり方までが、万事漢の様式になり、

難波の長柄の宮(孝徳天皇)、近江の大津の宮(天智天皇)の頃になると、天下の制度もすべて漢のようになった。その後は、いにしえの風習や言葉は、ただ神事にのみ用いている。だから後代になっても、神事の中には、皇国の古い言葉や行いの様式などが、なお残っている可能性が大きいのだ。

一般の人々の心まで、そうした考えに染まってしまった。

天皇の大御心を心とせず、万事自分のさかしらで判断するのは、漢人の心である。

その結果、平安だった大御国にも、みだりがましいことが起こるようになり、異国に似たようなことも、後世は入り交じってきた。

めでたい大御国の道を差し措いて、他国の賢げな理屈っぽい意識や言動をよいこととして習い学んだので、清く素直だった人の心も行いも、みな汚くねじ曲がり、ついには、その他国の厳しい道でなくては治まりがたく思われるまでになってしまった。そうした後の世のありさまを見て、聖人の道でなくては、国は治まらないと考えるのは、その治まりがたい世になったのが、元々その聖人の道の罪であることを知らないのである。いにしえの大御代は、そういう道などなくても治まっていたことを思え。

そもそもこの天地の間のありとあらゆることは、すべてが神の御心であるから、

およそ世の中のことは、春秋の移り変わり、雨が降り雪が降るようなことも、また国の上人の身の上に起こる吉事、凶事なども、ことごとく神が行われるのである。ところが神には善神も悪神もあり、行われることもそれによって決まるから、およそ普通の人間の理屈で測り知ることはできないわけである。それを世の人々は、賢い人も愚かな人もみな、外国の「道」の説に惑わされ、この心が分からない。皇国の学問をする人ならば、古い書を見て必ず分かることを、その人たちでさえ分かっていないのはどうしたわけか。吉凶万事外国で、仏教では因果と言い、漢の道の教えでは天命と言い、天の為すわざだと考える。これらは全部誤っている。仏教については、世の中の学ぶ人はよく知っていることだから、今は論じない。だが漢の国の天命の説は、賢い人もこれに惑い、まだ誤りをさとる人がいないので、これについて述べよう。そもそも天命ということは、かの国でいにしえに主君を滅ぼし国を奪った「聖人」が、自分の罪を免れるために作った偽りのご託宣である。本当は天地には心がないのだから、「命」もあるはずがない。もし本当は天に心があり、理もあって、善人に国を与えようと思っているのだったら、周の代の終わりにも、聖人が出てくるはずなのに、そうならなかったのはどうしたことか。もし周公や孔子が出た上は、もう道が備わったので、その後は聖人を出さなかったというなら、それはおかしい。あの孔丘ののち、その道があまねく世に行われ、国がよく治まったというなら、納得できるが、実際はその後、いよいよ道は廃れ果て、何もかも無駄口になってしまって、国もますます乱れたのに、「もう道は備わった」として聖人を出さず、国の災厄も顧みず、ついにはその国を秦の始皇帝のような荒ぶる人に与えて、人々を苦しめたのは、どういう天の曲がった心からか、非常にいぶかしい。始皇などは天が与えたのでないから、秦は長く持たなかった、と曲論することもできるだろうが、しばらくの間にせよ、あんな悪人に国を与える道理はないだろう。また国を治める君主に天命があるなら、下の諸人にも善悪のしるしがあって、善人は長く栄え、悪人は速やかに禍を受けるべき理屈なのに、そうではなく、善人も凶運を受け、悪人も栄えることは、昔も今もよくあるのはなぜか。本当に天の仕業なら、そうした間違いが起きるはずはあるまい。後世になると、次第に人の心もさかしくなり、国を奪って「天命だ」と言っても世人が納得しないので、うわべは国を譲ったように見せる「禅譲」という形をとることもあり、これをとても悪いことのように言う人もあるようだが、かの古代の「聖人」たちも、実際はそれと同じではないか。後世の王たちの「天命」は信じなくても、いにしえの聖人の天命を真実だと思い込むのは、なにを勘違いしているのか。いにしえには天命があったが、後世にはなくなったというのこそおかしいだろう。ある人は、舜は堯の国を奪い、禹も舜の国を奪ったと言ったが、そうでもあろう。後世の王莽や曹操なども、うわべは禅譲だったが、本当は簒奪なのを考えると、舜や禹もそうだった可能性が大きいと思われるのに、上代は人の心が素朴で、禅譲と唱えられれば、本当と思い、その国内の人たちもみな欺かれたのかも知れない。王莽や曹操の頃は世人もさかしくなり、欺かれなかったので、悪事が露顕したのだろう。彼らのような悪人たちでも、上代であれば立派な聖人として仰がれたであろうに。

禍津日神の御心の荒ぶることは、しかたのない、とても悲しい業である。

世の中に、凶事や病気など、正しい理に合わず、邪悪なことも多いのは、どれもこの神の御心であって、激しく荒びませるときは、天照大御神や高木大神などの大御力(おおみちから)にすがっても制しかねる場合もあるので、まして人の力では、どうにも仕方がない。善人も災いに遭い、悪人も福を受けるなど、普通の道理に合わないことが多いのも、みなこの神の仕業であるのに、外国には、神代の正しい伝えがなく、その理由が分からないから、単純な天命の説を立てて、何事も当然の理として決着しようとするのは、たいへん身の程知らずのことである。

それでも天照大御神は高天原に坐(いま)して、大御光はいささかも曇ることがなく、この世を照らせられ、天つ御璽も失われることなく伝えられて、お命じになったように天下は御孫がお治めになり、

異国には本来定まった主がいないので、ただの人も国を奪えばたちまち王となり、王もたちまちただの人となって、滅び失せたりもするのがいにしえからの風俗である。国を奪おうとして失敗した人を「賊」と呼んで卑しめ憎み、成功した人を「聖人」と呼んで尊び仰ぐ。要するに聖人も本来は賊であり、ただ奪い取るのに成功した人のことである。我が国の尊い天皇は、そうした賤しい異国の王どもとは、全く違う。この御国をお生みになった神祖命が、自らお授けになった皇統であって、天地の始めからお治めになる国と定まった天下であるから、大御神の大命にも、悪い天皇だったら従わなくて良いなどとはおっしゃっていないのであり、善い天皇も悪い天皇も、傍目でうかがい測るなどということをしない。天地のある限り、月日の照らす限りは、幾万代を経ようとも、動くことのない大君である。だから古語でもそのときの天皇を「神」と申し上げ、真の神であらせられるので、善悪を論じることなく、ひたすらかしこみ敬い奉るのが、真の道である。それなのに、近頃は世の中が乱れて、この道に背いてかしこくも大朝廷(おおみかど)にはむかって天皇を悩まし奉った、北条義時、泰時、また足利尊氏などは、天照大御神の大恩をも顧みない、汚い賊なのに、禍日神の心は不可解であって、世の人の心はみなその賊の方になびき、子孫までしばらくは栄えた。この世を照らしませる天つ日の神を尊ぶべきと知っていても、天皇をかしこみ奉ることを知らない奴(やっこ)も世にいるのは、漢籍の意に惑わされて、あの国のみだりな風俗をすばらしいことのように思って、正しい皇国の道を知らず、この世を照らしませる天つ日の神がすなわち天照大御神であることも信ぜず、天皇は天照大御神の御子であらせられることを忘れたのが原因であろう。

天津日嗣(あまつひつぎ)の高御座(たかみくら)は、

皇統を日嗣と呼ぶのは、日の神の御心を御心として、その御業を引き継ぐからである。その御座を高御座というのは、高いからでなく、日の神の御座だからである。日には高照(たかてる)、高日(たかひ)、日高(ひだか)などの古語があるのを考えれば分かる。日の神の御座を代々受け継いできて、その御座に坐します天皇なので、現在の天皇は日の神に等しいことは疑いがない。そうであれば、天の日の神の恩恵を受ける人々は、誰もが天皇をかしこみ敬い、尊び奉るのが当然であろう。

天地の限り、常磐(ときは)に堅磐(かきは)に末代まで不動の道は、霊妙で人知を超え、異国のどんな道より優れており、正しく高く貴い徴である。

<訳者注:常磐に堅磐にとは、永遠に形を保つ非常に堅い磐のように、といった意味>

漢国では、道を言うことはあっても、真の道はないため、もとよりみだりであるが、世々ますます乱れ、ついには傍の国人(元や清)に国は悉く奪われてしまった。彼らを「夷荻」などと呼んで軽蔑し、人間のように思ってもいなかったのだが、その勢力が強く、ついに奪い取られてしまったら、やむなく「天子」と呼んで仰ぎ見るなど、たいへんに浅ましいことではないか。これでも儒者は、なおいい国だと思うのか。王だけでなく、一般に貴い血筋と賤しい血筋が決まっていない。周と言った時代までは、封建制とやらいうのがあり、このけじめがあったようではあるが、それも王が変われば下まで変わるので、本当のけじめはつかない。秦以降は、ますますこの道が立たず、みだりであって、賤しい下層の女でも、王の寵愛を受けるとたちまち后の地位に昇り、王の娘も、正しい血筋でないものにめあわせて、恥とも思わない。昨日まで山賤(やまがつ:卑しい身分の田舎者といった意味)だった者が、今日は国の政を執る高官になるなど、およそ貴賤が定まらず、鳥獣のありさまと変わりがないように見受けられる。

この道はどんな道かと追求すると、天地自然に成立した道ではないようであり、

これをよく知って、漢国の老荘の道などとは混同しないようにせよ。

人が作った道でもない。この道というのは、かしこくも高御産巣日(たかみむすび)神の御霊により、

世の中のあらゆる事や物は、ことごとくこの大神の御霊が根元である。

神祖(かむろぎ)伊邪那岐(いざなぎ)大神と伊邪那美(いざなみ)大神が始められ、

世の中のあらゆる事や物は、この二柱の大神がお始めになった。

天照大御神がそれを受けられ、継承され、伝えられた道である。であるからこれを神の道と申す。

神の道という言葉は、書紀の石村池邊(いわれのイケベ:用明天皇)の宮の巻に初めて出る。しかしそれは、単に神を斎き祭ることを指して言う。同じく書紀 の、難波の長柄の宮(孝徳天皇)の巻に「惟神者(かむながらとは)、謂2随神道亦自有神道1也(カミノミチにしたがいタマイておのずからカミノミチあるをいう)」とあるのが、正しく皇国の神の道を指して言っている。その理由は、ここに引用したように、「その道」といっても、ことさら特別な行いがあるわけではない。だからただ神を斎き祭るだけであっても、煎じ詰めればおなじことである。それを漢籍に「聖人設2神道1(せいじんシントウヲもうけて)」とあるのを取ってきて、我が国の方にも名付けたなどと言う人がいるが、物事を知らない妄言である。なぜなら、神という名で指すものが、我が国と中国では、最初から違う。あちらでは、いわゆる天地陰陽の測りがたく霊妙な働きのことを言っており、空理空論であって、本当にそれがあるわけではない。皇国の神は、現在の天皇の御祖であり、実体のない空しいものではない。だから漢籍の道とは測りがたく霊妙な働きの道という意であるが、こちらは皇祖神が始められ、世々継いでこられた道であって、意味合いが大きく異なっている。

その道の心は、もろもろの古い書物をよく味わって読めば今でもよく分かるものなのに、世々の物知りたちは、みな禍津日神に取り付かれたのか、漢籍にのみ惑わされ、考えることや言うことはみな仏道と漢の道であり、真の道を悟ることができないらしい。

いにしえは道などと言挙げをしなかったので、古い書物には、「道」めいた意味合いのことや言葉は少しも書かれていない。ところが舎人親王から始まって、世々の識者と言われる人々は、道の心を理解できず、道の教えのようなことをうるさく言い立てる。漢籍のことばかり心に染みつき、それを天地自然の理と思っているため、それにすがるというわけではないが、おのずとそれに取り付かれ、あちらへばかり心が流れて行くらしい。それいう異国の道を、自国の道の助けになるはずだと考えていても、心は異国に奪われて行くのである。一般に漢国の説というのは、陰陽乾坤などをはじめ、どれも元来「聖人」どもが自分の智恵で推し測りこしらえたもので、少し聞いただけだと、いかにも理論が深いように聞こえるかも知れないが、その垣の内(領分)を離れて外から眺めれば、別に何ということもなく、案外浅はかなことを言っている。だが昔も今も世人は、この垣の内に迷い入り、出て離れる事ができないらしいのは残念である。大御国の説は、神代から伝えられてきたままであって、人の賢しらを少しも加えないので、一見内容が浅いように聞こえるが、実は底知れず人知の測り知れない、深妙な理がこもっているのに、それを知ることができないというのは、そういう漢国の書物の垣の内に迷い込んでいるためである。そこを出て離れない限り、たとえ百年千年と力を尽くして学んでも、道のためには何の役にも立たない無駄ごとになるだろう。ただし古い書物は、みな漢文に移して書いてあるので、中国のことも一通りは知っておくべきで、文字を知るために漢籍も暇があったら学んでよかろう。皇国魂(みくにだましい)がしっかりとできて、ふらふら迷うことがないなら、さほど害はないものである。

だから自分の身に受けて行うべき神の道の教え(特別の方法論)だなどと言って、いろいろなことをするのも、みな漢の道の教えをうらやんで、最近になって作り出した個人的な考えにすぎない。

「秘説」などと大げさに言って、少数の人を選び、ひそかに伝える説などは、みな後世になって偽造したものである。善い教えであれば、何であれどんどん世に広めることこそ善いことだろう。秘め隠して、人に広く知らせず、自分の私物にするなどというのは、たいへんひねくれた心の汚いやり方である。

かしこくも天皇がお治めになる天下の道を、下の者が下の者でありながら自分の道にしようとするのは畏れ多いことである。

下にある者は、とにかく上のお命じになることに従っていてこそ、道に適うだろう。神の道の行いが別にあるとしても、それを勝手に教え学んで、別に行ったら、それは上に従わない私事ではないか。

人間はみな、産巣日神の御霊によって、生まれながらにして、身に備わった限りのことは自分でも分かって良く行うことができるものであるから、

世の中に生きとし生けるものは、鳥虫に至るまで、自分の身の程に応じて、必ず能力の及ぶ限りのことは、産巣日神の御霊によって、生まれながらに知っていて、行い得るものであるが、その中でも人間は特に優れた存在であり、優れている程度に合わせて、知るべき限りは知り、すべき限りは行うものであるのに、どうしてそれ以上のことを強制する必要があるのだろうか。教えない限りは何一つ知ることも行うこともできないと言うなら、人間は鳥や虫にも劣ると言うのだろうか。いわゆる「仁義禮譲孝悌忠信」などの徳目は、人には必ずあるもので、その限りは、教えてもらわなくても自然とよく知って行うことができるのにあの「聖人の道」は、元々治まりがたい国を、強いて治めようと作り出したもので、人に備わった能力の限度を過ぎて、なおも厳しく教え込もうと強制するものだから、真の道には適っていない。だから口では人みな大げさに言いなから、本当に教えの通りに行う者はほとんどいないのに、それを天の理に従う道だなどと考えるのは、大きな間違いだ。またその道に背いた人を、「人欲」などと言って憎むのも解せない。その「人欲」というのは、どこからどうしたわけで発生したのか。やはりちゃんとした理由があって生まれたに違いないから、それもまた天理ではないか。また百世を経ても、同姓であれば結婚しない制度などは、中国でも、上代からそうだったのではない。周代の定めである。そう厳しく定めたのは、国の風俗が悪く、親子や同母の兄弟の間でもみだりがましいことが多く起こって、家族と他人のけじめがなく、治めるのが難しかったためであって、そうした制度の厳しさは、かえって国の恥である。どんなことでも、法が厳しいというのは、罪を犯す者が多いからであろう。そうした定めは制度として立てられるけれども、真の道ではない。人情に合わないため、従う人が非常に少ない。後世はさておき、早くも周代にさえ、諸侯という身分の者でもこれを破ることが多かったので、ましてそれ以下は言うまでもない。自分の姉妹などと関係を持った例もある。それなのに儒者どもは、昔からこのように世人が守り通せなかったことを忘れ、無駄な定めの条文をとらえて、何かすばらしい取り決めのように言いまた考え、皇国を無理に貶めようとして、ともすると古代には兄弟が婚姻したことを言い出して、「これこそ皇国の振る舞いだ」などとそしるのを、こちらの物知りたちも快からず、御国の欠点と思い、適当に口でごまかすだけで、いまだ明確にその理由を説明することもなかったのは、「聖人」のさかしらを当然の理だと思い込み、それにへつらう心があるからである。へつらう心さえなければ、中国と違ったところで、何のことがあろう。そもそも皇国に於いては、結婚を禁止したのは同母兄弟だけであり、異母兄弟が結婚した例は、天皇を始め、世に普通に行われ、平安以降も忌むことはなかった。ただし貴賤の別はうるわしく存在し、おのずからみだりなことはなかった。これがわが神祖の定めた、正しい真の道である。ところが後の世では、その漢国の定めを少々取り入れ、異母兄弟も「兄弟」と呼んで、結婚してはならないことになった。だから今の世であればそれを犯すのは悪いことだろうが、いにしえはいにしえの定めがあったのであり、異国の法制をもって議論するようなことではない。

いにしえの大御代には、下々まで、ただ天皇の大御心を心として、

天皇が思し召す御心のままにお仕えして、私心は微塵もなかった。

ひたすら天皇をかしこみ敬い、天皇に従って、大きな慈しみの御蔭(みかげ)に隠れ、銘々祖神を祭りながら、

天皇が御祖神を斎き祭られるように、臣、連、八十伴の緒、天下の百姓も、それぞれの祖神を祭るのは普通のことで、また天皇が朝廷のため、天下のために諸々の天つ神、国つ神をお祭りされるように、下の者も折に触れ、幸いを願って善神に請い祈り、禍を逃れるためには、悪神をも祈り和めて、時に身に穢れがあれば、お祓いをするなど、みな人情であって、必ず行うものだ。それのに、心さえまことの道にかなっておれば良い、などと言うのは、仏教や儒教の立場ではそうかも知れないけれども、神の道には大きく背くことである。異国では、神を祭るにもまず理を先に立てて、あれこれ議論する。淫祠邪教などと言って、特定の神を罰することもあるが、みなさかしらのことである。およそ神には、仏などのたぐいとは違って、善神だけでなく悪神もあって、その神の心に応じて所行にも善悪があるものだから、悪人も栄え、善人も災いに遭うことがある、これが正常な世の中だ。ということは、神の心は理の当不当をもって考え推測できるものではないのである。ただその怒りをおそれかしこみ、ひたすらお祭りするものなのだ。だから祭るにも、そういう心映えがあって、何としてもその神のお喜びになることをしようとする。万事を忌み清めて少しも穢れがないようにし、美味なものを可能な限りたくさんお供えし、琴を弾き、笛を吹き、また歌い、舞をするなど、面白く祭るのである。これはすべて神代の習いであって、いにしえの道というものである。それなのに、ただ心が至る、至らないといったことばかり言い立てて、お供え一つにも関心を持たないというのは、漢意にとらわれたための誤りである。さて、神を祭るには、何よりもまず火を厳重に忌み清めるべきであることは、神代の書の黄泉の段を見れば分かる。このことは、神事だけでなく、いつも注意し慎むべきで、みだりにしてはならない。火が穢れたときは、禍津日神がところを得て、荒ぶる神として現出され、世の中にさまざまの災厄が起こるのである。そうであれば、天下において、火の穢れは特に忌まわしいことである。今の世には、神事の際、また神のおられる所でこそ、どうにかこうにかこの火の忌みが行われているだろう。だがそれもしないようであれば、「火の穢れなど馬鹿なこと」と思う、なまさかしらな漢意が広まったからである。その結果、神の書を読み解くことのできる世の物知りたちでさえ、漢意の理屈ばかり、うるさいほどに説いて、この忌みの説についてはなおざりにしているのは、どうしたことだろうか。

ほどほどに身相応の営みをして、穏やかに楽しく世を渡る他にはなかったのであり、

そう生きる他に、何の教えが必要であろう。生まれたばかりの赤ちゃんにものを教えたり、また職人や匠といった人たちが物の作り方を弟子に教え、いろいろな芸の達人などがやはり弟子に芸を教えるということは、上代にもあっただろうし、儒仏の教えなども、いうなればこれらと似たようなものと言えなくはないが、よく考えれば、別物である。

いったい「その道」といって、別に教えを受けて行うべき業があるだろうか。

ある人は「それでは神の道というのは、漢籍の老荘の道というのと同じようなものか」と疑って質問したが、私はこう答えた。「その老荘の学を行う人たちは、儒学のさかしらをうるさく思い、自然というものを尊ぶので、おのずと似てくる点もある。だが彼らも、大御神の国でない悪い国に生まれ、代々の聖人の説を聞き慣れているので、「これが自然だ」と思うものも、やはりその「聖人」とやらが説く自然であって、万事は神の御心から出た仕業だということを知らないので、根本に於いて非常に違っている。

どうしても神の道を知ろうとするなら、汚れた漢意を祓い清め、清らかな御国の心をもって、古典をよく学習せよ。そうすれば、その他に受けて行うべき道などはどこにもないことが分かるだろう。それを知ることこそ、実は神の道を受けて行うことなのである。ということは、こうまで論じたのも、神の道ではないのだが、禍津日神のしわざを見て黙っているわけにも行かないので、神直毘(かむなおび)の神、大直毘(おおなおび)の神の御霊の力をお借りして、この禍(まが)を直そうとしたまでである。

これは、私の自分勝手な心で言うのではない。ここで述べたことは、すべて古典に逐一証拠のあることだから、それらをよく読む人は決して疑わないだろう。

以上は、明和八年十月九日、伊勢国飯高郡の御民、平の阿曾美(たいらのあそみ)宣長、かしこみかしこみも記す。

『古事記伝 第2巻』
・序文の解釈

二之巻【序文の解】(系図は省略)

古事記(ふることぶみ)上巻(かみつまき)并序

ここには『古事記序』として、『古事記上巻』という題は、本文の初めにあるのが普通だが、合わせてここに書き、本文の初めでは省いてある。諸本みな同じように書いてある。【「并序」は「ならびに序」、「序にならぶ」とも読めるが、どちらもわが国の言い方ではない。これはどうにも古言には読めない。しかしどう読んでもいいのだろう。また、「序」の字には、昔からの読みはない。強いて言えば、中昔から「奥書」という言葉があり、中国風に言うと「跋」なので、これに準じて「はしがき」、「はしことば」とでも言おうか。】この序は、本文とは大変違っており、漢籍に似せて甚だしく飾り立てた文だ。なぜそうしたかというと、書を作って上に献るときは、こういう風に文を飾りその御代を賞賛するという、漢の一般的な例にならったのである。そして漢文調に文を飾ったから、その心も自然に漢意となり、「混元既凝」、「乾坤初分」、「陰陽斯開」、「齊2五行之序1」といった語句が多い。こうしたことを言わなければ、文章らしいと見られなかったのだ。しかし序にこういう文が多いからといって、軽率に本文の趣旨を見誤ってはいけない。また本文と大きく違うからというので、「序は太安萬侶の作ではない、後人の書いたものだ」と言う人もあるが、それはあまりよく考えてみないで言っているのだ。すべてを考え合わせると、後に他人が書いたものでなく、間違いなく太安萬侶朝臣本人の筆である。本文に似ず漢文めいていることはたいへんなものだが、当時あれほど漢学を盛んに好まれた世であったからといって、誰にでもこの序の文のようなものを書けただろうか。○これからこの序を註するが、文章の飾りに過ぎないところは、一通り触れるだけで、詳しくは論じない。それは漢意であり、取るに足りないからである。しかし終わりの方で、安萬侶がこの記の編纂経過を述べ、書きぶりを説明したところは、本文を読む上で心得ておくべきことであるから、少し詳しく述べる。

臣安萬侶言。夫混元既凝。氣象未レ効。無レ名無レ爲。誰知2其形1。

読み下し:オミやすまろモウス。それコンゲンすでにコリテ、かたちイマダあらわれず。ナモなくワザもなし。タレカそのカタチをシラン。

口語訳:臣、太安萬侶がもうしあげます。原初に渾沌が初めて凝り固まったとき、万物の形というものはありませんでした。名前もなく、何かをするとか、何かになるということもなく、誰もその 形を知りません。

これは天地がまだ分かれていなかった頃の状態を、漢文の趣向で書いた文である。混元は「渾沌」とも言い、「元気未レ分也(ゲンキいまだワカレざるナリ)」と註されている。「既凝」とは、分かれようとするきざしが現れたのである。気象とは、天地のすべてを「気」と「象」の語でいう。

然乾坤初分。参神作2造化之首1。陰陽斯開。二靈爲2群品之祖1。

読み下し:しかしてケンコンはじめてワカレテ、さんじんゾウカノはじめをナシ、いんようココニひらけて、ニレイぐんほんのオヤトなる。

口語訳:その後天地が初めて分かれ、三柱の神が現れて世界の起源となり、これによって陰陽が発生して、陰陽の二柱の神が万物の創造主となりました。

「三柱の神」は天之御中主(アメノみなかヌシ)、高御産巣日神、神産巣日神を言う。本文冒頭に出ている。「造化」は、漢籍で、天地陰陽の運行により、万物が生ずることを言う。「二柱の神」は伊邪那岐、伊邪那美の二神を言う。「群品」は万物のこと。ここは二句ずつ、対(つい)にして書いてある。続く部分もみな対になっている。この序の文を見て、陰陽や乾坤の説はいにしえからあったからこそ、撰者もここにこの句を書いたのであり、一概に否定するのもどうかと思う人もあるが、そうではない。古伝にそういう意味のことがあったのなら、短い序文にもこれほどたくさんあるのだから、本文にも出ているはずだが、一度も出て来ない。本文と序を比べて、ここにこういう言葉があるのは、逆に古伝(本文)においては、全くそういう概念がなかったことの証拠であって、正実と文飾の違いはますますはっきりする。これを見ても、大御国の心映えが漢籍のそれとははるかに異なることを知るべきで、また本文には撰者の個人的見解を混入しなかったことが分かって、いよいよ貴いであろう。【ある人が質問して「太安萬侶は、後に書紀を撰んだ際にも参加したというが、書紀にも陰陽などの説が見える。この序にもあるから、安萬侶朝臣は結局この陰陽の説を信じていたように思われるが、どうだろう。」私は答えて、「書紀の撰は舎人親王が中心になって行われたので、参加したとはいっても、安萬侶朝臣の見解は取り上げられなかった。また朝臣の意図は、いずれにしても書紀の陰陽の論に関わりはない。古伝についてのみ、理解すべきであろう。」】<訳者註:乾坤は易経の言葉で、天地のこと。>

所以出=入2幽顕1。日月彰2於洗1レ目、浮=沈2海水1。神祇呈2於滌1レ身。

読み下し:このゆえに、ユウケンにシュツニュウし、ジツゲツ、メをアラウにアラワレ、カイスイにフチンして、ジンギ、ミをススグにあらわる。)

口語訳:その後、(伊邪那岐神は)冥界と現世を往復され、日と月の二神が目を洗うときに生まれ、海水で身を洗うときに、諸々の神たちが出現しました。

ここに「所以(このゆえに)」とあり、続く部分でも「故(かれ)」、「寔知(まことにしる)」、「是以(これをもって)」、「即(すなわち)」などとあるのは、別に言葉通りの意味はない。軽い接続辞である。伊邪那岐大神が夜見国(よみのくに)を訪問されたことを「幽に入る」と言い、現世に戻られたことを「顕に出る」と言う。「日月云々」は、阿波岐原(あわぎはら)で禊ぎをした際のことである。その後の二句も同じである。

故太素杳冥。因2本教1而識2孕レ土産レ嶋之時1。元始綿ボウ(しんにょうに貌)。頼2先聖1而察2生レ神立レ人之世1。

読み下し:かれ、タイソはヨウメイなれども、ホンギョウにヨリテ、クニをハラミ、シマをウミシときをシリ、ゲンシはメンバクなれども、センセイにヨリテ、カミをウミ、ヒトをタテシヨをシリヌ。

口語訳:そうして、世界の始まりは暗くてはっきりしませんが、神代からの伝承によって、(神が)国土や島々をお生みになった時のことが分かり、元始はあまりにも遠いのですが、いにしえの聖人の伝えによって、神が生まれ人が出現した頃の世界が分かるのです。

「太素」も「元始」も、世の始めを言う。「杳冥」は世の始めがとても遠くおぼろげで、定かでないことを言う。「冥」の辞は、旧印本に「ヨウ(穴かんむり+目)」とある。それでも悪くはない。同様の意である。「本教」は、人に物事を語り聞かせることを「教える」というのと同じで、神代のことなどを口で言い伝え、書き記して伝えた、その説(内容)である。「綿ボウ(しんにょうに貌)」は遠く遙かなさまを言う。「先聖」は神代のことを伝えたいにしえの賢人のことである。「立レ人(ヒトをタツ)」は、天照大御神以降の人に(神の業の)継承を命じられたことを言う。【これでは天照大御神も「人」だということになるが、「生レ神」の対語として書いたもので、言葉の上だけのことだろう。】また考えようによっては、「識(しる)」、「察(しる)」の主語を伊邪那岐命、伊邪那美命と見ることもできる。そう考えると、本教は天つ神の詔ということになる。その場合、先聖は天つ神のことである。

寔知懸レ鏡吐レ珠。而百王相続。喫レ劔切レ蛇。以萬神蕃息歟。

読み下し:マコトにシル、カガミをかけ、タマをはきて、ヒャクオウそうぞくシ、ツルギをカミ、オロチをキリて、バンシンばんそくセシコトを。

口語訳:鏡を掛け、珠を吐いて、世々の王が皇統を守り、劔を噛み、蛇を退治して、神々の子孫が繁栄したことが分かります。

「懸レ鏡」は、天照大御神が天の石屋(アマのイワヤ)にこもられたとき、真賢木(まさかき)の枝に八咫鏡を掛けたことを言うのだろう。【ただしその後に「百王相続」とあるから、皇孫の天降りしようとしたとき、天照大御神がその御霊(形見)として授けられたことを言うようでもあるが、その
後に「吐レ珠」とあるので、どうだろうか(話の筋が逆になる)。】「吐レ珠」、「喫レ劔」は、天照大御神と須佐之男命が誓い(うけい)をされたときのことである。「萬神蕃息」は、須佐之男命の子孫の神々が広がり繁栄したことである。

議2安河1而平2天下1。論2小濱1而清2國土1。

訓読:ヤスカワにハカリてアメノシタをコトムケ、オバマにアゲツライてクニをキヨメき。

口語訳:(神々は)天の安河で相談して天下を平定され、小濱で(国譲りの)議論をされて国土を清くされました。

上の句は、皇孫が天降りしようとするとき、八百万の神が天の安河に集合して相談されたこと、下の句は、建御雷(たけみかづち)の神が伊那佐の小濱に降りて、大国主神と議論して国譲りに同意させることで、天下を和らげ静穏にしたことを言う。

是以番仁岐命。初降2于高千嶺1。神倭天皇。經=歴2于秋津嶋1。

訓読:ココをモチて、ホノニニギノミコト、ハジメてタカチホのタケにクダリたまい、カムヤマトノすめらみこと、アキヅシマにキョウリャクしたまう。

口語訳;これによって番能(ほの)邇邇藝(ににぎ)の命は初めて(高天原から)高千穂の嶺に降られ、神倭伊波禮毘古(神武)天皇は(日向から)大和に移って都を構えられました。

「仁」の辞は、「にん」の音を「にに」の二音に用いたもの。こうした例は多い。「秋津嶋」は大和の地を言う。

化熊出レ爪。天劔獲2於高倉1。生尾遮レ徑。大烏導2吉野1。

訓読:カユウつめをイダシテ、テンケンをタカクラにエ、セイビみちをサエギリ、オオガラスよしのをミチビク。

口語訳:化け物のような熊が現れて爪を出せば、神剣が高倉下によってもたらされて神武を助け、尾の生えた人が現れて行く手を遮ると、八咫烏(やたがらす)が現れて吉野山中の道案内をしました。

これは四つのことを四つの句で書き、二句ずつが対になっている。いずれも白檮原(かしばら:神武天皇)の御世のことで、その段にある。「爪」の字は誤写である。山か穴ではなかろうか。【延佳は水(かわ)か派(なみ)ではないかと言うが、それはあまり良くない。】生尾は「生尾人」とある。大烏は八咫烏のことである。

列レ舞攘レ賊。聞レ歌伏レ仇。(舞の正字はイ+舞)

訓読:マイをツラネてゾクをハライ、ウタをキキてアダをフクす。

口語訳:久米の子らに舞をさせて八十建を討ち、歌を歌わせて登美毘古(兄の仇)を討ちました。

これも同じ段にある。ただし舞のことは出ていない。書紀にも「道臣命乃起而歌之(ミチのオミのミコト、すなわちタチテうたう)」とあるのみである。しかし後の久米舞は、この時の様子を伝承したものと言われており、歌うだけでなく舞もしたのだろう。

即覚レ夢而敬2神祇1。所以稱2賢后1。望レ烟而撫2黎元1。於レ今傳2聖帝1。

訓読:スナワチゆめにサトリテじんぎをウヤマイたもう。ユエニけんこうトしょうす。ケムリをノゾミテれいげんをナデたもう。イマにオイテせいていトつたう。

口語訳:たとえば崇神天皇は、夢に大神の言葉を聞いて神祇をお祭りになったので賢后(賢君)と讃えられ、仁徳天皇は烟を見て民の暮らしを慰撫されたので、今も聖帝と呼ばれております。上は水垣の宮の御世のこと、下は高津の宮の御世のことで、いずれもその段に出ている。「后」は「君」のことである。【神功皇后のことかとも思えるが、そちらには夢のことは出ていない。】「黎元」というのは民のことである。【後に「崇神」、「仁徳」という諡を送られたのも、ここに言うような意味である。】

定レ境開レ邦。制2于近淡海1。正レ姓撰レ氏。勅2于遠飛鳥1。

訓読:サカイをサダメてクニをヒラキ、ちかつオウミにセイシたもう。セイをタダシテうじをエラビ、とおつアスカにチョクシたもう。

口語訳:天智天皇は国の境を定めて多くの国を開かれ、近江の宮で政務を執られ、允恭天皇は姓を正し氏を明らかにされ、遠飛鳥の宮で世を治められました。

上の句は志賀の宮の御世のことで、近つ淡海(ちかつおうみ)は都のあった場所である。下の句は遠つ飛鳥(とおつあすか)の宮の御代のことである。「制す」、「勅す」とは、ただそこにいて天下の政治を行ったという意味だ。ここまでは、いにしえの御代で世評に高いことをあれこれ抜き出して、文飾のために書いたものである。<訳者注:古事記には天智天皇の記事はない。>

雖2歩驟各異。文質不1レ同。莫レ不C稽レ古以縄2風猷於既頽1、照レ今以補B典教於欲Aレ絶。

訓読:ホシュウおのおのコトニ、ぶんしつオナジからずとイエドモ、イニシエヲかんがえてフウユウをスデにスタレタルにタダシ、イマにテラシてモッてテンキョウをタエンとするにオギナハズということなし。

口語訳:このように御代御代の天皇の政治はそれぞれ緩急があり、才能や資質もいろいろでしたが、いずれの天皇もいにしえのことをよく考えて、風儀や道徳が廃れようとしていてもまた正しくされ、今のことを考えて正しい人の道が絶えようとしていても、また新たに力を加えて復興されました。

これはその上のことをとりまとめて述べている。「歩」は静かに歩むことで、「驟」は疾走することであるから、政治もその時々に応じて緩やかであったり、急であったりすることを言う。【「三皇は歩き、五帝は驟(はし)る」という言葉がある。】「風猷」は風致、道徳を言う。この文は、必ずしもこれまでに挙げられた天皇にすべて当てはまる訳ではないが、漢人の教えにあるようなことを、文飾として加えたものである。こう言っておいて、以下の文を起こしたのである。

曁B飛鳥清原大宮。御2大八洲1天皇御世A。

訓読:アスカきよみはらのオオミヤにオオヤシマをしろしめししスメラミコトのミヨにおよびて

口語訳:飛鳥浄御原の宮で国の政を行われた天武天皇の御世に到って、

これ以下は天武天皇のことを書いている。大八洲の「洲」を「州」とした本は良くない。ここに出したのは、ある一本の記載による。

潜龍軆レ元。セン(=さんずい+存)雷應期。

訓読:せんりょうゲンをていし、せんらいキにおうず。

口語訳:水底に潜む龍(太子)だった天皇が皇位に着かれ、雲の向こうでしきりに鳴っていた雷(太子)であった天皇が、活躍される時期が到来しました。

これはまだ儲けの君(皇子)だった頃のことを言った賛辞である。潜龍もセン(=さんずい+存)雷も、易経にあり、太子のことを言う。【セン(=さんずい+存)雷は易<「震」の卦辞>に「しきりに雷震(鳴る)」とあり、「震を長子とす」という言葉から出た。センの字を「游」に作るのは誤りである。】

聞2夢歌1而想レ纂レ業。投2夜水1而知レ承レ基。

訓読:ユメのウタをキキテ、ギョウをツガンコトをおもい、ヨルのカワにイタリテ、モトイをウケンコトをしろしめす。

口語訳:夢の歌をお聴きになって、皇業の継承を思い立たれ、夜、名張の横河のほとりに行かれて、鴻基を受け継ぐ身であるとお知りになりました。

これは皇位に着くよう促す神異があったことを言っている。夢の歌のことは書紀に記載がない。漏れたのであろう。「投2夜水1」というのは、(近江勢力を避けて)東国に下ろうとする途中、伊賀の名張にある横河のほとりに到った際のことである。大きな黒雲がわき起こって、空の大きな範囲を覆ったので、天皇は「不思議なこと」と思われ、自ら占って、「天下が二つに割れ、最後には自分の勝利となる徴だ」と知った。書紀にこの記事がある。【「聞」の字を「開」としたのは間違いだ。ここでは一本を採用した。】

然天時未レ臻。蝉=蛻2於南山1。人事共洽。虎=歩2於東國1。

訓読;しかれどもイマダときイタラザリシカバ、ナンザンにセミのごとヌケたまい、ジンジともにアマネクシテ、トウゴクにトラのごとくアユミたまいき。

口語訳:しかしながら、まだ機会が到来しなかったうちは、蝉が脱皮するようにするりと吉野に脱れられ、お味方が多く集まった時は、虎のように雄々しく東国を歩まれました。

上は近江京を脱出して吉野山に入られたときのこと、下は近江勢力を避けて、吉野から東国へ脱出しようとしたとき、天武天皇の人望を慕って道々応援軍が寄り集まってきて、ついには大軍となって美濃の国に到った時のことである。これらも書紀にある。「洽」の字は、延佳本に「給」とある。それも悪くない。

皇輿忽駕。凌(正字はさんずい)=渡2山川1。六師雷震。三軍電逝。

訓読:コウヨたちまちガして、サンセンをコエわたり、リクシいかづちのゴトクふるい、サングンいなづまのゴトクゆく。

口語訳:天皇が自ら出陣され、山川を越えて進まれると、全軍は雷のようにとどろき、稲妻のように進みました。

「凌(正字はさんずい)」は「歴(経るの意)」だという註がある。【「汎レ海凌(正字はさんずい)レ山(海を渡り山を越える)」などと言う。延佳本に「凌」とあるのは誤りである。】「六師」は「六軍」。下二句は皇軍の勢いの盛んなことを言う。【漢では天子は六軍、大国は三軍などと言うが、ここは数詞を対句に使っているだけで、六、三という語には意味はない。】

杖矛擧レ威。猛士烟起。絳旗耀レ兵。凶徒瓦解。

訓読:ジョウボウいきおいをアゲテ、もうしケムリのごとくオコリ、コウキつわものをカガヤカシテ、キョウトかわらのごとくトケツ。

口語訳:誰もが一斉に杖や矛を差し上げ、勇猛な兵士は至る所から湧き出で、赤い旗が軍を耀かせるようにひるがえって、賊軍はあっという間に滅びました。

上三句は軍の勢いの強いさま、下一句は近江軍の敗れ去ったさまである。

未レ移2浹辰1。氣レイ(さんずい+珍のつくり)自清。

訓読:イマダしょうしんをウツサズして、きれいオノズカラきよまりぬ。

口語訳:速やかに悪い気は治まって清らかになりました。

これは敵が速やかに滅び、天下が治まったことを言う。「浹辰」は子の日から亥の日までの十二日間のことで、その日数を費やさず、速やかに敵が滅んだわけである。レイ(さんずい+珍のつくり)は妖気。この悪い気が去って、清らかになったというのである。この字は諸本誤って「弥」としている。ここは延佳の考証を採った。

乃放レ牛息レ馬。愷悌帰2於華夏1。巻レ旌シュウ(揖のつくりを偏に、戈を旁にした字)レ戈。舞詠停2於都邑1。(舞の正字はイ+舞)

訓読:すなわちウシをはなちウマをいこえ、ガイテイしてカカにかえり、ハタをまきホコをおさめ、ブエイしてトユウにとどまりたもう。

口語訳:(天皇は)ここで戦闘に使った牛を解放し、馬を休め、凱歌を上げて都に帰られました。旗を巻き、武器を収め、舞い歌いして都に留まられました。

「放レ牛息レ馬」とは、漢国で、周の武王が紂王に勝って、馬を崋山の南に帰し、牛を桃林の野に放って、もう使わないことを世に示した故事による。愷悌は戦に勝ったときの音楽である。書紀に「イクサトケテ」とある。【私の考えだが、「悌」の字は不審である。「愷」は「愷楽」ともいって勝ち戦の音楽だが、「悌」の字にその意味があるということは聞かない。「愷悌」という言葉はあるのだが、それはまた意味が異なる。それなのにここで愷楽のことを愷悌と書いているのは、愷の字に引かれて混同したのだろうか。しかし、これは世間によくある間違いだったと思われる。書紀にも同じ間違いがあるからだ。漢籍にもあるのだろうか。もう少し調べる必要がある。】

歳次2大梁1。月踵2夾鍾1。清原大宮。昇即2天位1。

訓読:ほしタイリョウにヤドリ、つきキョウショウにあたりて、キヨミハラのオオミヤにして、ノボリテてんいにツキたもう。

口語訳:(天皇は)酉の年二月に、飛鳥浄御原宮で即位されました。

初めの句は、酉の年を言う。「大梁」は十二支が「昴宿(ぼうしゅく)」にある年のことで、これは二十八宿の西の星であり、西は酉の方だからである。次の句は二月を言う。「夾鍾」は十二律のうち二月の律だからである。「踵」は「鍾」と同じで、通用した例がある。書紀を見ると、天武天皇は癸酉の年、二月癸未【二十七日】に即位されたとある。

道軼2軒后1。徳跨2周王1。

訓読:ミチはケンコウにスギ、トクはシュウオウをこえたもう。

口語訳:(天皇の)行いはあの軒后(黄帝)にも優り、その徳は周王をも超えていました。

軒后は漢国の黄帝という王で、周王は文王、武王のことである。

握1乾符1而摠2六合1。得2天統1而包2八荒1。

訓読:ケンプをトリテ、リクゴウをスベ、テントウをエテはっこうをカネたもう。

口語訳:(天皇は)天つ御璽を受け継がれて天地を治め、皇統を嗣いで遠い異国までも王化されました。

乾符は天の吉端である。六合は上下四方を言う。天統は天から受けた帝統。八荒は八方の遠く離れた国々を言う。

乗2二氣之正1。齊2五行之序1。

訓読:ニキのタダシキにじょうじ、ゴギョウのついでをトトノエたもう。

口語訳:(天皇は)陰陽二気を正しくされ、五行の循環を整えられました。

二気は陰陽のこと。主君の政が良ければ陰陽五行の運行が正しくて、四時の気候も乱れないという、漢人の例のたわごとである。

設2神理1以奨レ俗。敷2英風1以弘レ國。

訓読:シンリをモウケてモッテならわしをススメ、エイフウをシキてモッテくにをヒロメたもう。

口語訳:(天皇は)神の理を明らかにして風俗を正しく良いものにさせ、優れた教えで国を発展させられました。

神の理は神妙の道理である。「奨レ俗」とは、民の風俗を良い方に勧め導くことである。「英風」は英聖の風教(優れた教え)である。

重加智海浩瀚。潭探2上古1。心鏡イ(火+韋)煌。明覩2先代1。

訓読:しかのみならず、ちかいコウカンにして、ふかくジョウコをさぐり、しんきょうイコウにして、あきらかにセンダイをみたもう。

口語訳:そればかりでなく、(天皇の)智恵は海のように広大で、上古のことを深く探求され、心は澄み切って、まるで目の前のことのように古い時代のことを見通されました。

智海とは、智恵の広く大きいことを海にたとえた言葉で、心鏡とは、心の明らかなことを鏡にたとえたのである。「浩瀚」は広大なこと、「イ(火+韋)煌」は光明輝かしい様子である。ここまでは、この天皇の大体の経歴を述べて、次のことを言おうとしたのである。

於是天皇詔之。朕聞諸家之所レ齎。帝紀及本辭。既違2正實1。多加2虚僞1。

訓読:ココニてんのうミコトノリしたまわく、ワレきく、ショケのモタルところの、テイキおよびホンジ、すでにセイジツにタガイ、おおくキョギをクワウと。

口語訳:ある時、天皇は詔して、「諸々の家で保有している帝紀(天皇の記録)と本辞(各家の史録)は、もう事実と違っていて、偽りのことも多く付け加えられているそうだ。」(と)

「詔之」の「之」の字は延佳本には「云」と書いている。それも悪くない。「もたる」の字(表示不可)は、「齎」の俗字だそうだ。延佳本には「齎」とある。「帝紀」は、後の文で「帝皇日継」とあるのと同じで、御代御代(みよみよ)の天津日継(あまつひつぎ)を記録した書物である。書紀の天武の巻で、川嶋皇子たちによる史書修撰のところにも帝紀とある。推古の巻の皇太子(聖徳太子)による修撰や、皇極の巻の、蘇我蝦夷が焼き捨てようとしたくだりでは「天皇記」とある。「国史」と言わず、「帝紀」、「天皇記」というのがいにしえの呼び名であろう。「本辞」は、下文(後の文)に先代旧辞とあるのと同じ。蘇我蝦夷が焼いた書を「国記(くにつふみ)」と言い、聖徳太子の修撰では「天皇記および国記、臣(オミ)連(ムラジ)伴造(トモノミヤツコ)国造(クニノミヤツコ)百八十部并公民等本記」とあるのも、これに当たるだろうか。川嶋皇子の修撰では、「上古の諸々の事」とあるのは、全くこれである。だがここでは旧事でなく、本辞、旧辞というのは、「辞」という語の意を思えば、天皇がこのことを思い立たれた意図は、もっぱら(事:書かれた内容より)古言を伝えることだったと考えるべきである。この後に続く記述で、「未レ行2其事1牟(ソノコトいまだオコナワレズ)」という箇所までは、この記の書かれたいきさつを述べており、特に注意して読むべきである。前半部の、漢文的修飾の多い部分とは、比較にならない重要性がある。

當2今之時1。不レ改2其失1。未レ經2幾年1。其旨欲レ滅。

訓読:イマのトキにアタリテ、そのシツをアラタメずば、イマダいくばくのトシをヘズして、そのムネほろびんとス。

口語訳:(詔の続き)「今速やかにその誤りを正さなければ、遠からず真の伝えは失われてしまうだろう。」(と)

「其失」とは、前に「多加2虚偽1」とあった状況である。「其旨」は真の伝えである。当時、虚偽が多く加わっていたとしても、まだ真の伝えは、全く失われてはいなかったので、天皇の海のように広い智恵、鏡のように明るい心をもってすれば、正実と虚偽を判別することもできたので、「今、この時に改め、正さなければ、いよいよ虚偽が多く加わり、遠からず真実は全く失われてしまうだろう」と思われたのである。【それなのに後世の人の学問は、その正実をなおざりにして、ただ漢文めいた虚偽のところばかり重視するように思われるのは、一体どうしたことだろう。】

斯乃邦家之經緯。王化之鴻基焉。

訓読:それスナワチほうかのケイイ、おうかのコウキなり。

口語訳:(詔の続き)「それはつまり国の成り立ちのいきさつ、天皇の治世を広めて行く事業の歴史である。」(と)

「経緯」とは、国を治める上で必要な要素を、機織りの経(縦糸)と緯(横糸)にたとえた言葉である。「鴻」とは大いなることである。

故惟撰=録2帝紀1。討=カク(西の下に激のつくり)2舊辭1。削レ僞定レ實。欲レ流2後葉1。

訓読:カレこれテイキをセンロクし、クジをトウカクして、イツワリをけずりジツをさだめて、ノチのヨにツタエンとノタマウ。

口語訳:(詔の続き)「だから今帝紀を撰び、古い言い伝えを考察して、虚偽を除き真実を選び定めて、後世に伝えたい」とおっしゃいました。

ここまでが詔(みことのり)の言葉である。「討カク(西の下に激のつくり)」は伝えの真実を深く考察することである。この一句は、特に古学の要諦とすべきことだ。適当に見過ごしてはならない。「後葉」は後世のこと。【なお「欲」の字は、意味から言うと「撰録」の前にあるべき文字である。】

時有2舎人1。姓稗田名阿禮。年是廿八。爲レ人聡明。度レ目誦レ口。拂レ耳勒レ心。

訓読:トキにトネリありて、セイはヒエダ、ナはアレ。トシこれニジュウハチ、ひととなりソウメイにして、メにわたればクチによみ、ミミにふるればココロにシルス。<訳者註:二十八は、「ハタチまりヤトセ」といった読みもあるが、宣長の訓がないので、ここでは簡明な読みにした。>

口語訳:このとき、稗田阿禮という舎人がいました。年齢は二十八、たいへん聡明で、一度でも見た書はすぐに憶えて暗誦することができ、耳から聞いたことも、決して忘れませんでした。

稗田という姓は、新撰姓氏録にはない。【延佳本で、弘仁私記の序を引用したところに、天鈿女(あめのうずめ)命の子孫だとある。】書紀の天武紀の上巻に、稗田という地名が見える。大倭(おおやまと)国の地名らしい。【添上郡に稗田村がある。これかも知れない。】その地名から出た姓だろう。「度レ目誦レ口」というのは、一度でも見た書は、すぐに記憶して口で誦えることである。「拂レ耳勒レ心」も、一度でも聞いた言葉は忘れないことを言う。【「廿」という字は、延佳本では「二十」と二文字に書いている。意味は同じであるが、この部分は四文字の句を並べているのだから、この句も四文字とすべきだろう。ここでは旧本によった。

即勅=語2阿禮1。令レ誦=習2帝皇日繼。及先代舊辭1。

訓読:すなわちアレにチョクゴして、テイコウのヒツギ、およびセンダイのクジをヨミならわしむ。

口語訳:そこで阿禮に帝皇日継と昔の言い伝えを暗誦し、学習するようにおおせつけられました。

「勅語」とは、天皇が自ら口でおおせつけられたことである。【役人を通じて、または文書などで命じられるのも「勅」とは言うが、勅語ではない。】あるいは、ここには別の意味もあるかも知れない。それは後に述べる。「令レ誦=習」とは、旧記の書から離れて、空で暗誦させられ、その語を口に習わしめたのである。このように、すぐに文字に記録するのでなく、まず口に暗誦させられ、よくよく習わせたというのは、言葉付きを重視させられたためである。このことは、一之巻ですでに触れた。書紀纂疏には、弘仁私記を引用して「天皇勅2阿禮1使レ習2帝王本紀及先代舊事紀1」とあるのは、「舊辭」を「舊事紀」と取り違えている。【間違っても、今流布している「先代旧事紀」と混同してはならない。その「旧事紀」という題名は、この「私記」の言葉を採って名付けたものである。】

然運移世異、未レ行2其事1牟。

訓読:シカレドモ、うんウツリよコトにして、ソノコトをいまだオコナワレたまわず。

口語訳:けれども、天皇が崩御され、世代が変わって、(後の天皇は)史書の編纂をまだ実行されようとしませんでした。

天武天皇が崩御され、御世が変わったため、撰録が実行されないまま、深く検討された古史古伝も、無駄に阿禮の口に残っていた。

伏惟皇帝陛下。得レ一光宅。通レ三亭育。

訓読:ふしてオモウニこうていへいか、イチをエてコウタクし、サンをツウジてテイイクしたもう。

口語訳:おそれながら、元明天皇は、帝位におつきになって徳を天下に広められ、天地人の三才に通暁せられて、民を化育なさっておられます。

「皇帝」は撰者の当時の天皇、那良の宮で天下を治められた天津御代豊国成姫天皇【後の諡は元明】のこと。「得レ一」は、老子に「天は一を得て(唯一の高い位に着いて)もって清く、地は一を得てもって寧(やす)く、王侯は一を得てもって天下の貞(みさお)となる」とあることから出た。「光宅」とは天下すべてを家とする意味で、「おおきにおる」とか「みちおる」【「光」は「充」である、という註もある。】とも読む。【「尚書(書経)」の「堯典」に、「光=宅2天下1(テンカにコウタクす)」とあることから出た。】「通レ三」とは、天地人の三才(すべての思想、知識、技能)に通じること。「亭育」は、元は「亭毒」と言ったが、通用してこのようにも言う。民を化育することである。【これも老子に「亭レ之毒レ之(コレをテイしコレをドクし)」とあることから出た。その註に、「毒は今では育と書く」とある。○「亭」の字を、旧印本で「亨」とあるのは間違い。】このあたりから、例の漢文の飾り言葉を多く出して天皇をほめそやす文になる。

御2紫宸1而徳被2馬蹄之所1レ極。坐2玄扈1而化照2船頭所1レ逮。

訓読:シシンにギョしてトクはバテイのキワマルところにオヨビ、ゲンコにいましてカはフナガシラのオヨブところをテラシませり。

口語訳:宮中におられながらにして、その徳は馬が走る限りの距離に達し、皇居に居ながらにして、その徳化は卑しい船頭が漕いで行ける限りの範囲に届いています。

「紫宸」も「玄扈」も、天皇のおられる所である。「玄扈」は黄帝が洛水のほとりの玄扈という石室に住んでいたとき、鳳凰が図をくわえて来て授けたという故事から引いた。【旧印本では、「宸」を「震」、「船」を「舩」と書き誤っている。】

日浮重レ暉。雲散非レ烟。

訓読:ヒうかびてヒカリをかさね、クモちりてケムリにあらず。

口語訳:太陽が出て耀き渡り、空には雲が散って煙でないというめでたい徴が現れています。

浮かぶというのは、出ることである。「重レ暉」とは光輝が明らかだということ。雲云々というのは、雲のようで雲でなく、煙のようで煙でないものが空に漂うことを言う。いわゆる「慶雲」である。

連レ柯并レ穗之瑞。史不レ絶レ書。列レ烽重レ譯之貢。府無2空月1。

訓読:カをツラネ、ホをあわすズイ、シしるすことをタタズ。トブヒをツラネおさをカサヌルみつぎ、フむなしきツキなし。

口語訳:連理の木や嘉禾の出現が相次ぎ、史官はその記録を絶つことがありません。またのろしを連ねなければ連絡できない国、通訳を幾人も重ねなければ言葉の通じないような遠い国からの朝貢が、毎月のように官府の倉に参っております。

「連柯」は連理の木(根が別で、枝がつながった木)である。「并」も茎が別で穂が一つになった、いわゆる嘉禾(かか)である(いずれも瑞祥)。下の二句は、外国から来る貢ぎの使いが、月々に絶え間ないことを言い、「列烽」は常に烽を連ねて警戒怠りなく防ぐ国、「重譯」は、通訳を重ねなければ言葉が通じない遠い国のことである。そうした国々も、今は朝貢して来るという。 「府」はその貢ぎの品々を収める府庫のことである。【「列烽」はその朝貢使がやって来たときにのろしを挙げることのようにも思われて、まぎらわしくはあるが、この箇所は「文選」にある顔延年の曲水の詩の序に、「赤(赤+頁)莖素毳、并柯共穗之瑞、史不レ絶レ書、棧山航海、踰沙軼漠之貢、府無2空月1、列2燧千城1、通2譯萬里1、穹居之君、内首稟レ朔、卉服之酋、廻レ面受レ吏(あかきクキ、しろきケバ、あわせるカ、ともなるホのズイ、シしるすことをタタズ。ヤマをこえ、ウミをワタり、スナをこえ、バクをこえるミツギ、フむなしきツキなし。ノロシをセンジョウにつらね、ヤクをバンリにかよわする。キュウキョのキミも、ウチにムカイてサクをウケ、キフクのシュウも、オモテをメグラシてリをウク。)」とある文を少し変えて引いたのだから、その元の文に即して考える。これに限らず、「文選」から引用した箇所はたくさんある。】

可レ謂C名高2文命1。徳冠B天乙A矣。

訓読:ナはブンメイよりもタカク、トクはテンイツにもマサレリとイイツべし。

口語訳:その名は夏の禹王より高く、徳は殷の湯王にも優っていると言うべきでしょう。

「文命」は夏の禹、「天乙」は殷の湯王で、いずれも異国の名高い王たちである。ここまでは当時の天皇を誉めそやす文で、続いて例のことを言い出すために持ち上げたのである。

於焉惜2舊辭之誤忤1。正2先紀之謬錯。

訓読:ココにクジのアヤマリたがえるをオシミ、センキのアヤマリまじれるをタダサンとして、

口語訳:ところが旧辞に誤りが多いことを残念に思われ、先代の古い記録が間違っているのを正そうと、

これ以降はこの記を撰録させられたいきさつを述べるが、この一文は、最初に天皇の御志を言ったのである。「謬」の字は、糸偏に書いた本もあるが、同じ意味である。

以2和銅四年九月十八日1。詔2臣安萬侶1。撰=録2稗田阿禮所レ誦之勅語舊辭1。以獻上者。

訓読:ワドウよねんクガツじゅうはちにちをモチテ、オミやすまろにミコトノリして、ヒエダのアレしょうするトコロノ、ちょくごのクジをセンロクして、モチテけんじょうセシムてへり。

口語訳:和銅四年の九月十八日、わたくし安萬侶におおせがあり、稗田阿禮がおおせによって暗誦する旧辞を、文書に記録して献上せよとのことでした。

この文の様子だと、この時も阿禮は存命だったらしい。【この人は、前に二十八才とあったが、それは天武朝のいつのことかは分からず、和銅四年には何才になっていただろうか。定かでないが、仮に天武元年のことであったとすれば、和銅四年には六十八才である。しかしながら、天武天皇はそのことを思い立たれてから、史書の完成を見ることなく崩御されたということなので、天武末年に近い時期だったのではないだろうか。もし末年のことだったとすれば、五十三才となる。】こうして天武の時に誦み習った帝紀と旧辞は、阿禮の口に残ったままだったのを、この時安萬侶朝臣に仰せつけて、選録させられたのである。ここで旧辞と言って帝紀と言わなかったのは、「旧辞」に帝紀の意味を込めて省いたのである。【また、ここでは口に暗誦する言葉を言っており、帝紀もその中に含まれていたから、特別に言う必要もなかった。】帝紀を除いた旧辞というわけではない。また、ここにさえ「勅語の」とあるからには、元々この勅語は、単にこのことを仰せつけられただけでなく、天皇【天武】自らの御口でこの旧辞を暗誦させられ、それを阿禮に聞き取らせ、大御言をそのまま暗誦させ習わせたのかも知れない。【そうでなければ、ここで特に「勅語の」と書く必要もないからである。だが他の古い書にも、勅語とはただ言いつけるという意味に用いるので、上記はそういう意味合いもあっただろうかと思って注したのである。】もしそうであったら、この記は天武天皇自ら撰び、暗誦したもうた古語であるということになり、この上なく貴い聖典である。だが天武天皇が崩御されて後、その志を継ぐ天皇が現れず、それほど貴い古語も、阿禮の命と共に滅んで行くばかりとなっていたのを、うれしくありがたくも、天神地祇の おかげがあって、和銅の大御代にこの撰録があり、現在までこの書が伝わったのである。学問をする人は、頭上に捧げ持って、天神地祇の恵み、天武、元明二代の天皇、稗田の老翁、また太安萬侶の恩を決して忘れないようにせよ。【この記のことを思い立たれた天武の元年は申年で、撰録させられた元明の和銅元年も申年である。ところが畏れ多くも宣長がこの伝を書き始めた明和の元年も申年だということを、ひそかに奇しき縁だと思っている。】

謹隨詔旨。子細採拾(拾の正字は、てへん+庶)。

訓読:つつしみてミコトノリにシタガイ、シサイにトリひろう。

口語訳:謹んで仰せにしたがい、阿禮の言葉を子細に記録しました。

ここからは撰録の様子を述べている。

然上古之時。言意並朴。敷レ文構レ句。於レ字即難。

訓読:シカルニじょうこのトキ、げんいナラビニぼくにして、フミをしきクをカマウルこと、じにオイテすなわちカタシ。

口語訳:しかし、上古においては言葉も心も至って素朴でしたので、文として文字に書き写すのは、大変なことでした。

これを見ると、阿禮の暗誦したのが非常に古い言葉であることが分かり、ますます貴重な書であるという感を深くする。「敷レ文」と「構レ句」は二つのことでなく、いずれも文に書き写すということである。「於レ字即難」も、文に書き取りがたいことを言う。文は漢文だからである。【後世のようにかな書きだったら、どんな古言も書き取れないことはなかっただろうが、当時はまだ仮字だけで物を書くことはなかったのだ。】上代のことだから、意味合いも言葉も大変古く、撰録当時とはすでに違っていたことが多かったので、漢文には書き取れなかったのも、もっともである。【「上古には、言葉だけでなく、心も素朴であった」と言っているところを、よく考えるべきである。いかにも奥深いように言葉を飾る意図は全くないのだ。だが漢文は心までも飾りばかり多く、その趣は非常に異なっている。】この文をよく味わい、撰者がどれほど上代の心と言葉を誤り違えることなく書き留めようと、いそしみ慎んだか、推し測るべきで、逆に書紀のように漢文で飾り立てた文は、古言とは大きく隔たっていることを理解すべきである。【この記のように飾ることがなくても、なお書き写すことが困難であったというのに、漢文をいかにも漢籍のように飾り立てたのでは、どうして古言を真実の通りに書き得ようか。】

已因レ訓述者。詞不レ逮レ心。

訓読:スデにクンにヨリてノベタルは、ことばココロにオヨバズ。

口語訳:すべてを訓(読み)で書いたら、言葉は心を表せません。

「已に」は「ことごとく」という意味。【書紀の神代巻に、「鋺既破砕(かなまりスデニくだけたり)」、継体の巻に「全壊(スデニそこなう)」、万葉巻十七に「天下須泥爾於保比底布流雪乃(あめのしたスデニおおいてフルゆきの)」、出雲国風土記に「既礒(スデニいそなり)」などあるのは、全部「ことごとく」の意味である。】「因レ訓述」とは、文字の意味を取って語を書くことを言う。いわゆる「真字」のこと。「詞」はその訓で書いた文。「心」は古語の「意」のことである。【「意」の字でなく「心」と書いたのは、その前に「意」の字があるので避けたのである。この序文は、同じ語の繰り返しを嫌っている。】そう言うのは、世にある旧記などを見ると、どれも訓を用いて書くと、いわゆる借字(「鴨」を「かも」と訓読みして歌の結びの「~かも」の意味に使うなど、万葉によく見られる)が多くなって、文字の意味が違っているので、語の意味におよび至らないということである。【私が思うに、これは記全体の記述法を思い図った言葉ではないだろうか。そうだったら、「述」は「のぶれば」と読み、「心」は撰者自身の心となる。この文の意味は、ことごとく訓で書くと、古語を誤りなく伝えようとする撰者の心に合わず、文が行き届かないということである。そうかも知れないと思う理由は、上記の意味だったら、記には借字を使わないようにするはずなのに、なお借字がしばしば見られるからである。しかしながら、借字が多いのは、いにしえの一般的な傾向であり、神名や地名に広く用いられていたので、正字がよく分からなかった頃、性急に改めようとするのも乱暴であり、全部を除き去ることはできなかったのが道理で、記の信頼性には変わりない。】

全以レ音連者。事趣更長。

訓読:マタクおんをモチテつらねタルハ、コトのオモムキさらにナガシ。

口語訳:しかしすべて音で書いたのでは、いたずらに長くなってしまいます。

「音」とは字の音を借りて書くことで、これがカナである。「事の趣き」とは、それを書いた文面である。そう言うのは、全くカナだけで書くと、文字の数がとても多くなり、訓を併用するのに比べると、「更に長い」と言っているわけである。【前記の考えで読むと、ここも「連者」を「つらぬるは」と読んで、撰者の思いを言っていることになる。】<訳者注:「つらねたるは」は「連ねたものは」で書かれた物のこと、「つらぬるは」は「つらねるのは」で撰者の動作のこと>

是以今或一句之中。交2用音訓1。

訓読:ここをモチテいまアルイハいっくのウチ、オンくんをマジエもちいるなり。

口語訳:このため、時に一句の中でも音と訓を混用しています。

上記のように、すべて訓を用いて漢字書きにすると、借字が多くなって、言葉の意味がわかりにくくなり、だからといってすべて音を用いると、文がとても長くなって煩わしい。そこで、今はほどよいところで音訓を混用したのである。

或一事之内。全以レ訓録。

訓読:アルイハいちじのウチ、マタクくんをモチテしるす。

口語訳:また時には、一つのこと全体をすべて訓で書いています。

もっぱら訓読みを採用していても、古言と言葉も意味もさほど違わない場合と、音読みで書けば、文字の意味は違うが言葉としては正しい場合、あるいは誰でもその古語を知っていて読み違うことはない場合、意味は少し違っていても、もうその書き方をみんなが知っていて、文字に戸惑うようなことはない場合などがあり、そうした場合はあえて長々と仮字書きをしなくても、簡約な漢字書きの方を用いたのである。「一事」、「一句」というのは叙述内容で区別をしたのでなく、文字を変えただけのことである。

即辭理難(正しくは匚に口)レ見。以レ注明レ意。

訓読:すなわちジのリみえガタキは、チュウをもちてイをあきらかにす。

口語訳:そのため、言葉の筋が分かりにくい時は、注を付けて意味を明らかにしました。

「理」は意のことで、以下に「以レ意」というのがそうである。「匚に口」の字は、「不可也」という注があり、「難」と同じ意味に使う。【釈日本紀に引いたのでは、「難」と書いている。】記には、さまさまな注があるが、言葉の意味を書いたのはまれであって、ほとんどはただ読み方を注しているので、ここは文の通りに解釈するべきではなく、おおよそのところを示したものと考えるべきである。【注では訓を教えるのがほとんどであることから、この文の意味を補うとすれば、辞とは字のことで、理あるいは意とは訓のことと考えていいだろうか。訓とはその字の意味だからである。たとえば「訓レ立云2多多志(「立」を読んで「たたし」と言う)」とある例では、読み方を教えているわけだが、「多多志」というのはつまり「立」の字の意味であるから、意味を教えている(明レ意)と言うこともできる。しかし多くの場合には「~の字は音で読め」と書き、仮名であることを注しているので、「明レ意」とは言い難い。いずれにせよ、事実にぴったり合った内容の文ではない。

况易レ解更非レ注。

訓読:イワンヤわかりヤスキハ、さらにチュウせず。

口語訳:意味が分かりやすい場合は、あえて注しませんでした。

「况」は特に意味はなく、軽く言い添えただけである。【字書には「発語の辞」とある。】「非」の字は「不」の意味で使っている。これは記の本文や書紀でも多く見られる。ところで、序文は全編対句で構成されているのだから、ここも前の文と対応するはずなのに、意味合いこそ対になっているが、文字は対応しないのは、本来は「易」の上に二字、「更」の上か下に一字あったのが脱落したのであろうか。

亦於2姓日下1。謂2玖沙訶1。於2名帶字1。謂2多羅斯1。如レ此之類。隨レ本不レ改。

訓読:またセイの「ヒのシタ」においてクサカといい、ナの「オビ」のジにおいてタラシという。カクのゴトキのタグイ、モトにシタガイテあらためず。

口語訳:一例を挙げますと、人の姓の「日の下」を「くさか」と読み、人の名の「帯」を「たらし」と言いますが、これらは元のままに読んで、改めませんでした。

この文は、正しくは「亦於2姓玖沙訶1謂2日下1、於名2多羅斯1謂レ帶」とあるはずの文である。その理由は、「玖沙訶」を「日下」と書き、「多羅斯」を「帯」と書いて、以前から書いてきた通りで、改めず、その字で書くという意味だからである。「如レ此之類」とは、長谷、春日、飛鳥、三枝のような例である。このたぐいだけでなく、地名や神名の多くは、古来書き慣わしたまま書いている。【だが書紀は神名、人名、地名、姓氏などの文字も、古来のものを用いず、ことさらに改めて、たとえば伊邪那岐命を伊弉諾尊、須佐之男命を素戔嗚尊などと書いている。それなのに後世の人は、書紀ばかり見慣れているので、これが正しい字だと思い、古事記のように伊邪那岐命、須佐之男命と書くのは、かえって誤りのように思うのは間違いだ。他の古い書物を比べてみるといい。どれもほぼこの記のように書いていて、書紀だけが違っている。この記や他の古い書物に出ている久米、川俣などの地名も、書紀だけは来目、川派などと書いている。これらの地名は、現在でもあちこちにあって、昔からその当地で書いてきた字も、みなこの記および他の書物と同じである。小さいことではあるが、これを見ても真実の書と漢文で飾り立てた書との違いを知ることができる。】

大抵所レ記者。自2天地開闢1始。以訖2于小治田御世1。

訓読:タイテイしるすトコロは、テンチカイビャクよりハジメテ、もってオハリダのミヨにオウ。

口語訳:内容の概略を言えば、天地の始まりから、小治田の御世(推古天皇)までです。

ここは古事記全体の始終について言っている。これに続いて、各巻の始終を言う。

故天御中主神以下、日子波限建鵜草葺不合尊以前。爲2上卷1。(葺は異体字)

訓読:かれ、アメノミナカヌシのかみヨリいか、ヒコなぎさタケうがやフキアエズノみことイゼンを、かみつまきトす。

口語訳:天御中主神から日子波限建鵜草葺不合命(神武天皇の父)までを上巻に書いております。

神代を一巻としたのは、本来そうしたものだからである。「フキ(パソコンにはない)」の字は、延佳本に「葺」とある。同じことである。ここで「命」の字に「尊」とあるのはたいへん珍しい。【この記では、「みこと」には高いのも卑しいのも、一般には「命」だけを用いる。ほかの古い書物でも、天皇の名にも「命」を用いることが多い。ところが書紀では「尊」と「命」を使い分け、「至って貴いのを尊と言い、それに次ぐのを命と表記する」と注釈してあり、「尊」の字は書紀の撰者によって新しく用いられたと思われ、また日子(ひこ)、日女(ひめ)に「彦」、「姫」という字を書くのも書紀であって、古事記には一つもない。これらのことを考え合わせると、ここに「尊」の字があることは、多少不審である。だからと言うので、この序全体を疑い、後世の偽作だと言う人もいるが、それはおそらく間違っている。よく考えてみると、「大雀(おおさざき:仁徳天皇)」を旧印本で「大鷦鷯」としているのも、書紀を見慣れた後世人による誤記であるから、ここの「尊」の字も同じようなことで、書紀を見慣れているために誤写したのではないだろうか。真福寺本は「命」と書いてある。これが正しいだろう。また思うに、次の文で伊波禮毘古(神武天皇)は天皇、品陀(應神天皇)は御世、大雀(仁徳天皇)は皇帝、小治田(推古天皇)には大宮とそれぞれ違った呼び方をしているように、ここもただ書き方を変えただけであって、必ずしも当時「みこと」を「尊」と書いたというわけではなかったのではないか。】ただし、最近発見された上野国多胡の郡の古い碑文の写しを見ると、石上麻呂公を石上尊、藤原不比等公を藤原尊と書いている。この碑は、同じ和銅四年に建てたという。ということは、当時既に、貴人を「尊」と称することが、ままあったのだろう。【その称が「みこと」に当たることから、書紀ではすぐにその字を採って、「みこと」の意味に用い、「至って貴い」場合に書いたということだろう。それなのに、その碑文の「尊」を朝臣(あそみ、あそん)の意味で「そん」の音を採ったという説は、たいへんな曲説である。】

神倭伊波禮毘古天皇以下。品陀御世以前。爲2中卷1。大雀皇帝以下。小治田大宮以前。爲2下卷1。

訓読:かむやまとイワレビコノすめらみことイカ、ほむだのミヨいぜんを、ナカツマキとナス。オオサザキこうていイカ、おはりだのオオミヤいぜんを、シモツマキとナス。

口語訳:神武展から應神天皇までを中巻とし、仁徳天皇以降推古天皇までを下巻としました。

「天皇」、「御世」、「皇帝」、「大宮」は、それぞれ文字を変えて言葉の綾としたのである。【また「天皇」と「皇帝」、「御世」と「大宮」をそれぞれ対にしている。】應神までを中巻、仁徳以降を下巻としたのは、ただ自然の記述に従っただけで、特別な意味はない。【中巻は長く、下巻は短いことを考えると、少しは意味がありそうに思えるが、そうではない。應神の巻を下巻に入れたら、今度は下巻の方が長くなるので、同じことである。】ここで、小治田の御世までで終わりとした理由は、この撰録は阿禮の暗誦するのを書き留めたわけで、それは元々天武天皇の勅語であったので、推古の次の舒明天皇は、天武のお父上でもあったから、はばかってその御世までは語らなかったのであろう。そういう気遣いは、記の中身にも見える。【他田の宮(敏達天皇)の段で、皇子たちを挙げたところでも、舒明天皇については諱を書かず、「岡本の宮で天下を治めた天皇」と書いている。】この記が撰者の新しい見聞を加えることなく、阿禮が暗誦したままを書き留めたことは、これによっても知られるであろう。

并録2三卷1。謹以獻上。臣安萬侶。誠惶誠恐。頓首頓首。

訓読:あわせてサンカンをしるし、ツツシミテもってケンジョウす。オミやすまろ、セイコウせいきょう、トンシュとんしゅ。

口語訳:全部で三巻に記しました。謹んで献上いたします。臣安萬侶、心から恐れ入っております。

三巻としたのは、その程度がほどよい分量だったということである。

和銅五年。正月廿八日。

その昨年、九月十八日に詔を受けて以来、わずか四ヶ月あまりにして撰録を完了したのは、えらく速いようだが、阿禮が暗誦するままを書き留め、撰者の見解などを加えなかったためである。

正五位上勲五等。太朝臣安萬侶。

「勲五等」とは、普通の位階の他に、「勲位」といって一等から十二等まであり、官位令にある。義解(ぎげ)によると、五等は正五位に相当する。【勲位は武功によって賜るものである。】太安萬侶朝臣は、神武天皇の皇子、神八井耳(かむやいみみ)の命の末裔である。詳しくは、その段で述べる。安萬侶は誰の子か分からない。【書紀の天武の巻に、多品治(おおのほむじ)という人の名がある。壬申の乱のときに大きな功績を挙げて、位は「小錦下」となっており、持統の巻には「十年八月庚午朔甲午、多臣品治に直廣壹(じきこういち)の位を授け、褒美の品を与えて、天武に初めから従って功績を挙げたこと、また関を堅く守ったことに対し、お褒めの言葉があった」という記事がある。おそらくこの品治朝臣の子ではないかと思う。この氏は、天武の巻で朝臣となって、多朝臣品治と書かれているのに、持統の巻で朝臣でなく臣と書かれているのは、どうしたわけだろうか。なお「直廣壹」は、天武の定めた四十八階の第十位に相当する。】続日本紀の第三巻に、「慶雲元年正月丁亥朔癸巳、正六位下太朝臣安麻呂に従五位下を授けた」【公式記録では初出。】、また第五巻に「和銅四年四月丙子朔壬午、正五位上を授けた」【正五位下になったことは、記事がない。漏れたのであろう】、第六巻には「霊亀元年正月甲申朔癸巳、従四位下に叙す」、第七巻に「同二年九月乙未、氏の長(かみ)となる」、第九巻には「養老七年七月庚午、民部卿従四位下、太朝臣安麻呂が卒した(死んだ)」【民部卿になったことも、記事がない。漏れたのだろう。】とあるが、年齢は書かれていない。この他、「弘仁私記」の序、三統の理平の延喜六年の「日本紀竟宴の歌」の序、橘の直幹の天慶六年の「同竟宴の歌」の序、また忌部の正通の「口决」などに、書紀を舎人親王と太安麻呂の二人が詔を受けて撰述したとある。【続日本紀には、親王一人の撰のように書かれており、太安麻呂のことは出ていない。○神名帳に、大和国十市郡に小杜(こもり)神命神社が出ている。一説に、この神社は多神社の東南にあり、現在「木下社」と称し、安麻呂を祭ると伝える、という。案ずるに、これらを含む四社の後に、「以上四社は太社皇子神(オオのヤシロのミコガミ)」と延喜式に書かれており、多氏の祖先を祭っていることは疑いない。これが事実、安麻呂なのではないだろうか。】なお旧印本には、「謹上」の二文字はない。

系図(省略):