ケインの『一般理論』には、この岩波版と追っかけ出版された講談社学術文庫版がある。どちらを選択すべきかと尋ねられれば、迷わず岩波版とするだろう。残念ながら翻訳は十全とはいえないが、こうした古典の場合、原典にあたらざるを得ないのだから、本格的に取り組む前に取り敢えず雰囲気がわかれば役に立つといえるだろう。
新訳への期待が大きかっただけに出版当時酷評が多かったが、大半は本当に英語が読めている人がしていたのかどうか疑わしい。これは少し前の小保方さん叩きと似通っていてとても不快である。公正を期す意味で5つ星にした。
雰囲気がわかる具体例としては、序文の訳文を2段落ほど比較すれば十分と考える。そこの原文の意味は次のようになっている(日本語を練ってなくて申し訳ないが)。
「本書は主に同門の経済学者諸兄を念頭に置いております。一般読者向けにもなっているといいのですが。とはいうものの、本書は厄介な理論的諸問題を主に論じ、その現実経済への応用は主題にしておりません。従来の正統派経済学に難点があるとすると、それは論理整合性に細心の注意を払って構築されたその体系にではなく、その諸前提が不十分で普遍性を欠くところにありそうです。ですから、同門の諸兄を説得してその基本的仮定をいくつか批判的に再検討して頂くためには、非常に抽象的な議論や熾烈な議論をも展開せざるを得ませんでした。徒に言い争うのは望まざるところです。しかし、本書固有の観点を明らかにするに留まらず、従来理論との相違点はいったい何であるかはっきりさせることこそ大切だとずっと思っていますから。本書でいう「古典派理論」の信奉者であれば、本編での主張は「大間違い」なのかそれとも「何一つおかしなことはない」のか自信を持って言えないかもしれません。同理論の信奉者でなければ「そうだとかそうでないとか」とか「いやいやそのいずれでもない」とか言えるところなのですが。だから行論中の論争的なくだりは、悩める同門の諸兄が答えに辿り着けるよう敢えて挿んでおります。ただ古典派との違いを際立たせようとするあまり、議論が苛烈に過ぎる点があればご寛恕ください。自身が多年にわたり信奉者だった理論をここで批判するわけですから、それがなかなか強固で手強い相手なのを著者がまんざら存じ上げぬ訳ではありませんので。
古典派との食い違いはこれ極まりないということではあります。けれど、私のいっていることに間違いがなければ、一般の読者の方ではなく、まず最初に他ならぬ同門の諸兄をこそ本書で説得できなければいけません。その筋道からいうとここでは、一般読者の方々にこの討論の場へご来訪いただけることは歓迎致しますが、とりあえず傍聴席に甘んじて戴き、一経済学者が同門の経済学者たちとの理論的言説の大きな違いに決着をつけようとするのをお見守り願いたく存じます。この違いゆえ目下経済理論の実際性はほとんど殺がれており、決着がつくまでそれは殺がれ続けるであろうものなので。」
これを念頭に置き、岩波版のケインズの序文をご覧いただくと雰囲気は感じていただけるものと思う。書き写すのはしんどいので書店などで手に取られたい。
これに対して、講談社学術文庫版はわけがわからない仕上がりで雰囲気どころか読み通すことおぼつかない。
訳者解説も我田引水、出鱈目で、この人はほんとに英語が読めるんだろうかと思わせる。わずか2段落の訳文でさえ誤訳、悪訳の高密度のオンパレードで、訳者でっち上げの箇所は他のところでも頻出で文脈を追っていくことが非常に難しい。ものの役に立たないといっていいだろう。
危険回避のため、あえて引用するとこんな感じである。
「 この本は主に、経済学者仲間に向けたものです。他の人にも理解してもらえればとは思います。でも本書の主な狙いは理論上のむずかしい問題を扱うことで、その理論を実践にどう適用するかは二の次でしかありません。というのも、既存経済学の悪いところは、その上部構造のまちがいにはありません。上部構造は論理的な整合性を持つように、とても慎重に構築されています。まちがいはむしろ、その前提に明確さと一般性がないことです。ですから本書の目的は経済学者たちに対し、自分たちの基本的な前提の一部を批判的に再検討するよう説得することです。でもそれを達成するには、とても抽象的な議論と、かなりのケンカ腰が不可欠でした。後者はもっと減らしたかったところ。でも自分の見方を説明するだけでなく、それがどんな点で主流理論と乖離するかを示すのも大事だと思ったのです。私が「古典派理論」と呼ぶものに強くこだわる人々は、私がまるでまちがっているという信念と、目新しいことは何も言っていないという信念の間で揺れ動くでしょう。そのどっちが正しいか、あるいは第三の選択肢が正しいのかを決めるのは、それ以外の人々です。ケンカ腰の部分は、その答を出すための材料をある程度提供しようという狙いです。そして、ちがいを際だたせようとするあまりケンカ腰が強すぎるようならお許しを。この私だって、かつては自分が今や攻撃している理論に自信を持っていたし、たぶんその強みを知らないわけでもないのですから。
争点となっている事項は、これ以上はないほど重要なものです。でも私の説明が正しいなら、まず説得すべきは経済学者仲間であって、一般大衆ではありません。議論のこの段階では、一般大衆は論争にお呼びでないとは申しません。でもある一人の経済学者と他の経済学者との間の深い意見の相違を明るみに出そうと いう試みにおいては、野次馬でしかありません。でもその意見の相違点は、現在経済理論が持っていた現実的な影響力をほとんど破壊してしまい、そしてそれを 解決しないと、今後もその影響力を阻害し続けてしまうのです。」
A、致命的誤訳と思われる箇所
1、 「私がまるでまちがっているという信念と、目新しいことは何も言っていないという信念の間で揺れ動くでしょう。そのどっちが正しいか、あるいは第三の選択肢が正しいのかを決めるのは、それ以外の人々です。」
⇒全く意味が取れておらず、序文全体の論旨に訳文があっていない。
まず、「まるで間違っている」ということと「目新しいことは何も言っていない」ということは、対極にあることといえるのか。また、”nothing new”には序文末尾の”The ideas which are here expressed so laboriously are extremely simple and should be obvious.”を踏まえ訳語を充てるべきではないか。また「第三の選択肢が正しいのかを決めるのは、それ以外の人々です」と著者は考えているのか。これも上記英文を踏まえなければいけないのではないか。上記を考慮すると、適切な意味合いは次のようになる。
本編での主張は「大間違い」なのかそれとも「何一つおかしなことはない」のか自信を持って言えないかもしれません。同理論の信奉者でなければ「そうだとかそうでないとか」とか「いやいやそのいずれでもない」とか言えるところなのですが。
2、「思った」
⇒現在完了が取れていない。アメリカ人ならこう訳してもいい場合があるが、ケインズはイギリス人である。これを考慮すると、適切な意味合いは次のようになる。
ずっと思っていますから
3、「争点となっている事項は、これ以上はないほど重要なものです。」
⇒全く意味が取れておらず、序文全体の論旨に訳文があっていない。
”The matters at issue” と”importance ”の訳語が中学生的で文脈を考慮していない。この文章に続く、”But”の意味と連続性が失われている。上記を考慮すると、適切な意味合いは次のようになる。
古典派との食い違いはこれ極まりないということではあります。
3、明るみに出そう
⇒全く意味が取れておらず、序文全体の論旨に訳文があっていない。
明るみに出しただけでは問題の解決にならない。この点を考慮すると適切な意味合いとしては次のようになる。
決着をつけよう
B、不適切と思われる箇所
1、「理解してもらえればとは思います」
どれだけ上から目線なのか。この序文に全く相応しくない。この最初2つ段落は一般読者への同書の記述スタイルについての事情を説明して、脱稿後の感慨を込めながら、弁解しているところである。
2、「上部構造のまちがいにはありません」
上部構造に間違いがあるように理解できる。だがそんなことは原文に書いてない。
3、「お呼びでないとは」、「 野次馬でしかありません」
上記B-1、に同じ。
他、日本語が全般に稚拙でケインズに相応しくない。細かいところまで指摘すると、この僅か二段落ですら、きりがない。
補足1
阿部重夫氏が「今ごろですがケインズ『一般理論』新訳 」(2008年1月7日 [書評])というブログを書かれており、既約との比較が参考になるので一部引用し、講談社学術文庫版の同じ箇所の翻訳と比較してみます。
----引用ここから----
新旧訳を比較してみよう。
「たとえば、ピグウ教授のほとんどすべての著作を通じて流れている確信、ならびに生産および雇傭の理論は(ミルの場合と同じように)「実物」交換に基礎をおくものとして構成することができるものであって、貨幣は後の章に申訳的に導入すれば事足りるという確信は、古典派の伝統の近代的翻訳である。現代の考えは、もし人々が彼等の貨幣をある仕方で支出しないならば、他の仕方で支出することになるという観念になお深く根を下ろしている。」
ひどいもんでしょう。この乱れた文脈は、原文を逐語訳しようとするからで、英語はこんな下手な文章ではない。いや、ケインズはかなりの文章家なのだ。新訳はこうである。
「貨幣は摩擦が生じた場合を除くと実質的にはなんの重要性ももたず、生産と雇用の理論は(ミルの理論がそうであったように)「実物」交換を基礎にして構築することができる――貨幣は章を追って、取って付けたように導入される――という確信、これはたとえばピグー教授のほとんどすべての著作に流れている確信だが、このような確信は古典派的伝統の現代版である。現代の思考には、貨幣がある方面に支出されなければそれは別の方面に支出されるという考えがいまなお深く染みついている。」
改善の跡は歴然としている。これなら期待できる。東洋経済の直訳は、今なら機械翻訳のチンプンカンプンに近い。これでケインズを論じたのだから、日本のエコノミストが軒並みダメなのも理解できる。ただ、間宮新訳が完全に塩野谷訳の呪縛を吹っ切ったかとなると、定着した訳語には妥協したところもあるようだ。
----引用ここまで----
ここのケインズの原文は
"The conviction, which runs, for example, through almost all Professor Pigou's work, that money makes no real difference except frictionally and that the theory of production and employment can be worked out (like Mill's) as being based on 'real' exchanges with money introduced perfunctorily in a later chapter, is the modern version of the classical tradition. Contemporary thought is still deeply steeped in the notion that if people do not spend their money in one way they will spend it in another."
です。
講談社学術文庫版の同じ箇所の翻訳は
「たとえばピグー教授のほとんどあらゆる著作の根底には、お金は多少の摩擦以外は何一つまともなちがいを生まないし、生産と雇用の理論は(ミルのように)「実体」交換だけに基づいて編み出せて、お金なんて後のほうの章で適当に触れておけばいいんだ、という発想があります。これは古典派伝統の現代版なのです。今の考え方は、もし人がお金をある方法で使わなくても、別の方法で必ず使うもんだという考え方に深くはまっているのです。」
例によって「ひどいもんでしょう。」ケインズの「英語はこんな下手な文章ではない。」この翻訳の不適切な箇所は、
1,「『実体』交換」」
→「実物」でないと意味が通らない。
2,「多少の摩擦以外は何一つまともなちがいを生まない」
→"except frictionally "と原文で副詞を使っている意味がわかってない。その結果日本語として意味が通っていない。
3,"and that"の"and"の弱い因果関係がとれていない。
4,"like Mill's"は「ミルのように」ではない。
5,"still"が訳されていない。
などなど中学生レベル
間宮氏の訳で古典派の二分法と貨幣ヴェール観の雰囲気はよく伝わります。蛇足乍ら、原文のイメージは次のような感じでしょうか。
例えば、ピグー教授がほぼすべての述作で一貫してみせるその揺るがぬ信念によれば、貨幣は「実物」の交換取引を円滑にする(no real difference except frictionally)だけなので(and)、産出と雇用の理論は(ミルのと同様に)実物の交換取引ベースで解明し、その後の章で貨幣は形式的に取り扱わねばならないということですが、これは古典派の故轍を今に踏むものです。今日の(経済学の)思潮を未だに深く染めぬいている考えでは、貨幣は何に対してかはどうあれ何らかのかたちで使われることになるのです(not spend their money in one way they will spend it in another)。
補足2
(講談社学術文庫版の『一般理論』の訳者山形浩生が酷くレベルが低い翻訳屋だという事実を知りたい方やケインズ『貨幣論』にご関心のある方は、少し長いですが、目を通してみてください)
○はじめに
ケインズに関心をもたれた方が講談社学術文庫版の『一般理論』を誤って選んでしまうのは、喉が渇いたときにクッキーをすすめられているように非常に不幸なことですし、自身も高校生時分にデタラメ翻訳がデタラメだとわからず徒骨の経験がありますので、老婆心乍ら「講談社学術文庫版『一般理論』訳者山形浩生の英語力の無さ、読解力の無さゆえに、①山形浩生がダメダメ翻訳屋で②山形浩生の訳が意味不明のダメダメ翻訳である」ことがよくわかる具体例を追加しておきます(この山形浩生の翻訳への第三者詐欺的な欺罔的高評価がことのほか多くこれに欺かれぬようするためです。なお、この欺罔的高評価という「雑草」簇生の機制は下記注1の寓喩のようなことではないかと思います)。この具体例というのは、当初のレビューで述べた間宮訳への「酷評が多かったが、大半は本当に英語が読めている人がしていたのかどうか」きわめて「疑わしい」ものの一つでもあります。また、この補足の理路途上でケインズ『貨幣論』の流動性選好に関連する箇所を手短にまとめておきましたのでご参考まで。
○山形浩生がダメダメ翻訳屋で、山形浩生の訳が意味不明のダメダメ翻訳であることがよくわかる具体例
「一般理論 誤訳」でググると「他の人の間宮訳『一般理論』批判について」という山形浩生の「経済のトリセツ」という偉そうなブログが一番上にでてきます。これは直接には「池田信夫の間宮陽介氏への誤訳批判」への批判という体裁ですが、同時に池田信夫が一知半解のまま誤訳指摘の根拠として誤って引用している「米倉茂氏が間宮氏の誤訳を指摘するためにした『一般理論』の一部和訳とその説明」への間接的な批判ともなっています。それと同時に山形浩生がどのようにして講談社学術文庫版ケインズ『一般理論』で誤訳を量産してしまったかがうかがい知れる内容ともなっており、それゆえこれをここで取り上げる次第です。
予め言っておきますと、池田信夫が一部米倉茂氏を誤って引用しているうえに更に山形浩生がトンチンカンな批判をしていますので、このブログはまさに「目糞鼻糞」の構図です。他方、盥半切を尻目に「米倉茂氏の間宮訳への誤訳の指摘」は概ね正しいものです。「米倉茂氏の誤訳の指摘」は佐賀大学のレポジトリにある同氏の複数の論文上にあり、インターネットで容易にみつけることができます(これは間宮訳で意味不明瞭の箇所がある場合に読解の手引きとなります)。
それを池田信夫が誤って引用している箇所は留保をつけるにしても、上記ブログで「米倉茂氏の誤訳の指摘」へ山形浩生が言っていることはまるで正鵠を失しており、山形浩生としては姑息な自慢のつもりだったんでしょうが逆に満天下に恥を晒す結果になっています。
同ブログで山形浩生の非常に初歩的な英語力の欠如がわかるのは、
1,初っ端の山形浩生の馬鹿げた発言
----引用ここから----
「訳し分けて、debts は債権、bondは債券でまったく問題ない。ちなみにぼくはdebt は「負債」と訳し、bondは債券としている。
ついでに、15章にはby purchasing (or selling) bonds and debtsという下りがある。どっちも債券にするわけには、いかないでしょ?」
----引用ここまで----
→ここで、 このように一対一対応訳に拘泥するところなんかは三流の三流たる所以でしょう。まるで中学生です。「見た目はおとな頭脳は中学生、たった一つの段落もまともに訳せてない(恐ろしいことにそれが講談社学術文庫版ケインズ『一般理論』なのです)」山形浩生の低劣訳文では、bread and butter は「パンとバター」になるのでしょうか?また、文字数で翻訳料が決まるので小狡く稼ぐために null and void とかは「どっちも無効にするわけには、いかないでしょ?」とかいって「無効かつ有効性を失い」とでも訳すのでしょうか??いったい山形浩生は"and"が出て来たとき①several”and”か②joint”and”か③combination of synonymsかを意識しているのでしょうか。初級文法を勉強しなおした方が良いのではないでしょうか??弱い因果のandの意味も取れていないし。
2,二番目の山形浩生の間抜けな発言=文脈を理解出来ない山形浩生が文脈を論ずる
----引用ここから----
「意味的にはおっしゃる通り。だがそれはその直前の部分を読めば当然わかることなので、無理に weakness に「偏愛」という訳語をあてる必要もないでしょ。「おれ、浪花節には弱いんだよね」と言ったらまあおそらく浪花節を偏愛してるってことだけど、それは文脈から読み取るべきこと。まちがいとはとても言えない」
----引用ここまで----
→これには大笑いです。というのも山形浩生自身の訳では『一般理論』の当該箇所は「この国民的な弱みの宿敵が株式市場なのです」となっていますが、そこは正しくは「この国民性たる偏頗な性向の報いを、株式市場が受けるのです」と訳されるべきところです。山形浩生自身の訳では何を言っているのかそもそも日本語として意味が取れません。まさにこのもともとの文章で文脈が全然取れず誤訳してるのに「文脈」云々というのは噴飯もの、呆れはてて二の句がつげません。
3,三番目の山形浩生の中二病的知ったかぶり=そもそも『貨幣論』が読めてない
----引用ここから----
「ベア・ポジションが『弱気の状態』と訳されているが、正しくは「株価下落に賭ける投機」のことである」というのは、「ちがうと思うなあ。普通に『弱気の状態』でいいと思う。たとえば (because at that level they feel “bearish” of the future of bonds) なんてのはよく出てきて、bearishが別に株価の話だけを言ってるわけじゃないのは明らか。それにこの当時、先物やオプションを駆使したポジション設定がそんなにできるわけがないでしょ。今の用法にひきずられすぎ。
(付記:その後、『貨幣論』をチェックした。上巻の終わりのほうに出てくるんだが、ケインズはそこで、ベアポジションというのはふつう、株を空売りするような話だけれど(つまり上のような意味)自分はそこに、株よりも貯金を増やすような選択も含める、と明記している。だから上の批判はピントはずれで不適切)」
----引用ここまで----
→ここは、池田信夫が正しく引用していない複雑骨折の箇所で、おまけに「『貨幣論』をチェックした」とする山形浩生自身の最終的論拠が、図らずも読解力の無さを露呈している「猿の尻笑い」のところ。「『ベア・ポジショ』は『株価下落に賭ける投機』」などと米倉茂氏は言ってませんし、「ベア・ポジション」を「弱気の状態」と訳す山形浩生の言い分が全くの錯誤です。山形浩生が「『貨幣論』をチェックした」つもりでいるのは以下に掲げる『貨幣論』の文脈のところで、これをもって「普通に『弱気の状態』でいいと思う」などとはいえないのです。『貨幣論』を読めば自明です。山形浩生はよくヌケヌケと「『貨幣論』をチェックした」などと言えるモノです。英語が読めないので表紙に落書きでもしたんでしょうか?『貨幣論』の文脈を具体的に見てこの点確認してみましょう。
『貨幣論』では,まず公衆は2つの意思決定をすると論じ、最初に、所得を現在消費と貯蓄(将来消費)に分割し、次にその分けた貯蓄について単に「保蔵」するかそれとも「投資」にまわし運用するかを決めるとします。換言すると、「貨幣」のままか或いは「貸付資本=債券または実物資本=株式」へあてるか、つまり「銀行預金」としておくか「証券(債券と株式)」を買うかを公衆は決めるとケインズは論じます。
さらに、ケインズは貨幣(銀行預金)総量を,保有動機から「所得預金」「営業預金」「貯蓄預金」,資金の視点(貨幣を何に支出するか)から「産業的流通の目的に用いられる預金」「金融的流通の目的に用いられる預金」にそれぞれ分類し,産業的流通の目的に用いられる営業預金を「営業預金A」,金融的流通の目的に用いられる営業預金を「営業預金B」とさらに分類し、「産業的流通の目的に用いられる預金」=「所得預金」+「営業預金A」また「金融的流通の目的に用いられる預金」=「貯蓄預金」+「営業預金B」という構成となるとします。
そうしてさらに、証券価格の下落を予想する人を「売持ちに賭する投機筋」、逆に証券価格の上昇を予想する人を「買持ちに賭する投機筋」と呼んで,貯蓄預金のうち「売持ち」「買持ち」のポジションにかかわりなく保有される預金を(残高の変動が緩やかな)「貯蓄預金A」、「売持ち」「買持ち」のポジションに応じて、証券を売ってその売却代金を預け入れる預金、あるいは証券を買うのに引き出される預金を(残高の変動が激しい)「貯蓄預金B」とにさらに分類します。
この文脈で、「売持ちに賭する投機筋」は証券よりも貯蓄預金Bを選んでいる人、「買持ちに賭する投機筋」は貯蓄預金Bよりも証券を選んでいる人なのです。山形浩生が根拠としている「株よりも貯金を増やすような選択」(ただし『貨幣論』のケインズは証券として株と債券を一括りにしていることに注意)とはこのような意味であり証券の売買に端から連動したものです(山形浩生は貯蓄預金Bがわかっていないのです。所謂勝手読みであり本がまともに読めていません。だから山形浩生の「上の批判はピントはずれで不適切」)。この議論の筋道を無視し文脈をとらずに摘まみ食いをした山形浩生がブログの付記で得意げに言っているように、「ただ単に預金を増やすこと」との区別をつけず、ケインズが『貨幣論』で論ずるところを無視して、ベア・ポジションを「弱気の状態」であるとするのは牽強附会というやつです。この様に山形浩生という三流翻訳屋は自らの誤訳誤読によって、自ら誤訳誤読の無限連鎖に嵌まるのです。
山形浩生は文脈もまともにとれないのに、物知り顔で「別に株価の話だけを言ってるわけじゃない」とか「今の用法にひきずられすぎ」とかいうのは、あまりにも見当外れ奇妙奇天烈臍茶ものです。ただ、呆れるしかありません。
米倉茂氏は、上で言及したペーパーの間宮氏訳に関わるもので『一般理論』13章4節の誤訳に関連して"bear postion"や"bear"の説明をされ、「『弱気』になったらポジションなんかずっと手仕舞っちゃいますよね、普通(その際、貯金は動的な「貯蓄預金B」 ではなく単なる「保蔵」)」てな感じで"bear"を弱気云々とする素人の根拠なき相場に対する単なる主観の愚劣さを指摘されていらっしゃいます。これは第13章第4節の”the state of bearishness ”を「弱気の状態」とするのが誤訳であると指摘するためですが、池田信夫も山形浩生もそれが理解出来ずそれぞれ勝手に的外れなことをいっているのです。それぞれがそれぞれに「ピントはずれで不適切」なわけです。
因みに『一般理論』13章4節は非常に短く、以下の通りです。
"Whilst liquidity-preference due to the speculative-motive corresponds to what in my Treatise on Money I called 'the state of bearishness', it is by no means the same thing. For 'bearishness' is there defined as the functional relationship, not between the rate of interest (or price of debts) and the quantity of money, but between the price of assets and debts, taken together, and the quantity of money. This treatment, however, involved a confusion between results due to a change in the rate of interest and those due to a change in the schedule of the marginal efficiency of capital, which I hope I have here avoided."
この節の山形浩生のデタラメな訳は
----引用ここから----
「投機動機による流動性選好が、拙著『貨幣論』で「弱気状態」と呼んだものに対応しているのは事実ですが、この両者は決して同じものではありません。というのもあの本での『弱気性』というのは、金利(または債権価格)とお金の量の関数関係ではなく、資産と債権をあわせた価格と、お金の量との関係として定義されていたからです。でもこの処理は、金利変動による結果と、資本の限界効率スケジュール関係の変化による結果とで混乱が生じてしまいました。そうした混乱は、本書では避けられたものと期待したいところです。」
----引用ここまで----
この誤訳は、例によって例の如く、「弱気性」とか珍妙な言葉が「定義」されるなどで意味が取れない日本語もどきになってます。が、原文で論ぜられるところは心理状態に係る話ではなく、「弱気ではできない積極的資産選択」にかかわる事ですので正しい意味は次の通りです。
「投機が動機の流動性選好の話は、私が『貨幣論』の中で「市場売り越しの地合い」を論じたところに似ています(corresponds to)が、それとは全く違います。何故なら同書で明示した「証券市場で売り越す」というところでは、金利(つまり債券価格)と貨幣量との間の関係ではなくて、株価も債券価格も併せて、それと貨幣量との連関を論じている(下記注2をご参照)からです。しかし、この扱いでは、金利変化の効果と資本の限界効率の変化の効果とがごちゃごちゃになってます。本書ではこの混同を防げたものと考えます。」
米倉氏の言葉を引かせて戴くとここで「ケインズは金利と貨幣量の関係を問題にする場合、『貨幣論』の段階では金利と株価、債券を一緒くたにして貨幣量を論じたことがまずいことに気づき、『一般理論』では金利と債券価格の関係から貨幣量の話をしたので」す。ただ、こんな話は本文中でなく脚注でやればいいのにと思わなくもないです。サムエルソンがケインズ『一般理論』を"it is the work of genius."としながらも"It is a badly written book, poorly organized"と言うのはこんなところもあるせいでしょうか。
4,最後の山形浩生の戯言
----引用ここから----
「『[実物]資産と債権』(同)は『株という資産(assets)と債券(debts)』と訳すべきというが、これもどこに該当するのかわからないけれど、怪しいと思う。」
----引用ここまで----
→英語力な
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雇用,利子および貨幣の一般理論 上 (岩波文庫 白 145-1) 文庫 – 2008/1/16
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- 出版社岩波書店
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- 寸法10.5 x 2.4 x 14.8 cm
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第一篇 序論
第一章 一般理論
第二章 古典派経済学の公準
第三章 有効需要の原理
第二篇 定義と概念
第四章 単位の選定
第五章 産出量と雇用の決定因としての期待
第六章 所得、貯蓄および投資の定義
付論 使用費用について
第七章 貯蓄と投資の意味 ―― 続論
第三篇 消費性向
第八章 消費性向(一)
第九章 消費性向(二)
第一〇章 限界消費性向と乗数
第四篇 投資誘因
第一一章 資本の限界効率
第一二章 長期期待の状態
第一三章 利子率の一般理論
第一四章 古典派の利子率理論
付論 マーシャル『経済学原理』、リカード『政治経済学原理』、その他に見られる利子率について
第一五章 流動性への心理的誘因と営業的誘因
第一六章 資本の性質に関するくさぐさの考察
第一七章 利子と貨幣の本質的特性
第一八章 雇用の一般理論 ―― 再論
のうちわけです。
第一章 一般理論
第二章 古典派経済学の公準
第三章 有効需要の原理
第二篇 定義と概念
第四章 単位の選定
第五章 産出量と雇用の決定因としての期待
第六章 所得、貯蓄および投資の定義
付論 使用費用について
第七章 貯蓄と投資の意味 ―― 続論
第三篇 消費性向
第八章 消費性向(一)
第九章 消費性向(二)
第一〇章 限界消費性向と乗数
第四篇 投資誘因
第一一章 資本の限界効率
第一二章 長期期待の状態
第一三章 利子率の一般理論
第一四章 古典派の利子率理論
付論 マーシャル『経済学原理』、リカード『政治経済学原理』、その他に見られる利子率について
第一五章 流動性への心理的誘因と営業的誘因
第一六章 資本の性質に関するくさぐさの考察
第一七章 利子と貨幣の本質的特性
第一八章 雇用の一般理論 ―― 再論
のうちわけです。
2013年4月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
腰を据えて読まないと、理解、当方は出来ません。シュンペーターの本もですが、日本語の表現が少し古い感じがします。
2023年5月23日に日本でレビュー済み
様々な箇所において古典派経済学に対して批判しています。そのため、古典派経済学とケインズ経済学との違いが分かります。また、参考書において解説されるIS-LMモデルの基本的枠組みは、この上巻でほぼ完成しています。上巻の全18章中の13章において、既に次のIS曲線に相当する記述があります。「利子率の上昇は投資を減少させる。よって、利子率の上昇は貯蓄が投資と同額減少する水準まで所得を引き下げることになる」
本書を読んで、IS-LMモデルの理解が浅かったことを痛感すると共に、理解が深まりました。特に、次の二つは本書から得られた有益な知見でした。(1)IS-LMモデルにおける限界消費性向の変数としての重要性、(2)完全に予見することのできない投資の拡大が消費に影響を及ぼし尽くすまでにはある程度の遅延があり、限界消費性向の値が通常値になるまでには期間を要すること。
IS-LMモデルに表されてはいませんが、著者が重要視している項目に使用費用というものがあります。著者はこの費用を4つの要素から定義しており、現在と将来を繋ぐ環の一つとしています。また、この費用は「設備を今使用しなければ将来のとある期日に獲得されると期待される追加期待収益の割引価値」であるとも述べています。
流動性選好において、銀行の利息の小さな変動が貨幣保有量に及ぼす影響を取るに足らないとし、債権の利子率を重要視していることは興味深かったです。と言うのも高い利子率自体を魅力として債権を購入するのではなく、利子率が高ければ逆に債権価格は低いので、将来に債権価格が上昇する可能性が高まり、将来の高い債権価格を見越して債権を買って利益(キャピタルゲイン)を得ようというものです。反対に債権の利子率が低い場合、債権は購入しないので貨幣需要は相対的に高まります。このような心理を投機的動機と呼んでいます。
また、期待収益の予測に関連して、株式市場での投機的取引きを批判している次の記述は的を射ています。「投機家は企業活動の堅実な流れに浮かぶ泡沫(うたかた)としてならば無害かもしれない。しかし企業活動が当期の渦巻に翻弄されて泡沫になってしまうと、ことは重大な局面を迎える。一国の資本の発展がカジノでの儲け事の副産物となってしまったら、なにもかも始末に負えなくなるだろう」
本書を読んで、IS-LMモデルの理解が浅かったことを痛感すると共に、理解が深まりました。特に、次の二つは本書から得られた有益な知見でした。(1)IS-LMモデルにおける限界消費性向の変数としての重要性、(2)完全に予見することのできない投資の拡大が消費に影響を及ぼし尽くすまでにはある程度の遅延があり、限界消費性向の値が通常値になるまでには期間を要すること。
IS-LMモデルに表されてはいませんが、著者が重要視している項目に使用費用というものがあります。著者はこの費用を4つの要素から定義しており、現在と将来を繋ぐ環の一つとしています。また、この費用は「設備を今使用しなければ将来のとある期日に獲得されると期待される追加期待収益の割引価値」であるとも述べています。
流動性選好において、銀行の利息の小さな変動が貨幣保有量に及ぼす影響を取るに足らないとし、債権の利子率を重要視していることは興味深かったです。と言うのも高い利子率自体を魅力として債権を購入するのではなく、利子率が高ければ逆に債権価格は低いので、将来に債権価格が上昇する可能性が高まり、将来の高い債権価格を見越して債権を買って利益(キャピタルゲイン)を得ようというものです。反対に債権の利子率が低い場合、債権は購入しないので貨幣需要は相対的に高まります。このような心理を投機的動機と呼んでいます。
また、期待収益の予測に関連して、株式市場での投機的取引きを批判している次の記述は的を射ています。「投機家は企業活動の堅実な流れに浮かぶ泡沫(うたかた)としてならば無害かもしれない。しかし企業活動が当期の渦巻に翻弄されて泡沫になってしまうと、ことは重大な局面を迎える。一国の資本の発展がカジノでの儲け事の副産物となってしまったら、なにもかも始末に負えなくなるだろう」
2014年8月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「誰もが知っているけど誰も読んだことがない」、これが古典的書物の定義なら「一般理論」はまさに企画に失敗したが故に古典となってしまった作品といえよう。
意図された企画は序文によれば「本書の主たる読者はわが経済学者諸氏である..........私の目的は経済学者に彼らの基本的仮定の若干のものを批判的に再検討してもらうことにある」。これには下巻の終末の以下の部分が対応している、「経済学者や政治哲学者の思想は、それらが正しい場合も誤っている場合も、通常考えられている以上に強力である。実際、世界を支配しているのはまずこれ以外のものではない。誰の知的影響も受けていないと信じている実務家でさえ、誰かしら過去の経済学者の奴隷であるのが通例である....」。
まあケインズが実際付き合っていた自由党などの政治家はもしかするとそうだったかもしれない。しかし21世紀の我々からすると、
「あほなことぬかすな!」といいたくなる。我々の知っている政治家といえば、離婚歴のある妻、占星術師、耄碌した陽明学者、坊主......こういったたぐいの精神的奴隷なのである。
同業者を説得しようとする議論は難解である。ケインズ自身「理論上の難題」とか「高度に抽象的な議論」と言っているくらいだから。また現在の研究では彼自身の「古典派理論」の理解にも正しくない点があるそうだ。我々現実の経済社会に生きる人間としては、同業者に対する議論は無視して、ケインズ自身が「実際の経済はこうだ」と述べているところに耳を傾ければよいのである。
幸運(!)にも、初めて読む人は「第12章 長期期待の状態」を読めばよい。この章は経済についての知識がゼロでも読める。華麗なレトリック、あけすけな表現が満載で文句なく楽しませてくれる。まさに「読まずに死ねるか!」の文章だ。ただ、その結論はいただけない、
「長期的視野に立ち社会の一般的利益を基礎にして資本財の限界効率を計算することのできる国家こそが、投資を組織化するのに、ますます大きな責任を負う」。金融政策の成功に懐疑的なのはともかく、こういうのを、永遠の希望的観測というのだろう。
さらに知性を刺激してくれるのは「第17章 利子と貨幣の本質的特性」である。この章は現代風に言えば一種の資産選択理論を展開しているのだが、より平たく言えば、
「なぜ、どうして、我々は時にあるいはしばしば守銭奴なのか?」を論じたものだ。彼の結論は「持越費用がゼロで、流動性プレミアムが無限大だから」とでもなろうか。このあたりは資産家であり資産運用家でもあったケインズならではであり、貧乏なジャーナリストだったマルクスには及びもつかない部分である。ケインズの嫌悪した金本位制ははるか昔のことであるが、タンス預金30兆円といわれる我が国において、この章の考察は極めて現代的だ。彼は貨幣を需要する心理について、投資をストップさせるだけでなく、人間本性に根付いたものと考えているようだが、この部分は難しい。そのためか、第17章は「一般理論」の中で最も難しい章といわれている。
「有効需要により雇用量が決定する」とは、現実の経済には均衡(一般均衡)が存在しないことを教えてくれる。完全雇用から離れても自動的に元に戻るような力は現実の経済には存在しない。我々はそんな幸福な世界には生きてはいない。ただ、一般均衡が存在しないと仮定するなら、マクロ経済学者は論文が書きにくいのだろう。ロバート・ルーカスが「こんな本は読まなくともよい」というのはもっともだ。経済学者になるには不要かもしれない。しかし現実の経済に取り組むためには必須の書物なのである。
21世紀の我々から見ると、この書物が現実の不況の有効な解決策を教えてくれるものとは思えない。それどころか、豊かさと失業とは表裏一体のものであることを教えてくれる。経済政策に過大な期待をするよりそれなりに失業と付き合うことを覚えたほうがよいかもしれない。
意図された企画は序文によれば「本書の主たる読者はわが経済学者諸氏である..........私の目的は経済学者に彼らの基本的仮定の若干のものを批判的に再検討してもらうことにある」。これには下巻の終末の以下の部分が対応している、「経済学者や政治哲学者の思想は、それらが正しい場合も誤っている場合も、通常考えられている以上に強力である。実際、世界を支配しているのはまずこれ以外のものではない。誰の知的影響も受けていないと信じている実務家でさえ、誰かしら過去の経済学者の奴隷であるのが通例である....」。
まあケインズが実際付き合っていた自由党などの政治家はもしかするとそうだったかもしれない。しかし21世紀の我々からすると、
「あほなことぬかすな!」といいたくなる。我々の知っている政治家といえば、離婚歴のある妻、占星術師、耄碌した陽明学者、坊主......こういったたぐいの精神的奴隷なのである。
同業者を説得しようとする議論は難解である。ケインズ自身「理論上の難題」とか「高度に抽象的な議論」と言っているくらいだから。また現在の研究では彼自身の「古典派理論」の理解にも正しくない点があるそうだ。我々現実の経済社会に生きる人間としては、同業者に対する議論は無視して、ケインズ自身が「実際の経済はこうだ」と述べているところに耳を傾ければよいのである。
幸運(!)にも、初めて読む人は「第12章 長期期待の状態」を読めばよい。この章は経済についての知識がゼロでも読める。華麗なレトリック、あけすけな表現が満載で文句なく楽しませてくれる。まさに「読まずに死ねるか!」の文章だ。ただ、その結論はいただけない、
「長期的視野に立ち社会の一般的利益を基礎にして資本財の限界効率を計算することのできる国家こそが、投資を組織化するのに、ますます大きな責任を負う」。金融政策の成功に懐疑的なのはともかく、こういうのを、永遠の希望的観測というのだろう。
さらに知性を刺激してくれるのは「第17章 利子と貨幣の本質的特性」である。この章は現代風に言えば一種の資産選択理論を展開しているのだが、より平たく言えば、
「なぜ、どうして、我々は時にあるいはしばしば守銭奴なのか?」を論じたものだ。彼の結論は「持越費用がゼロで、流動性プレミアムが無限大だから」とでもなろうか。このあたりは資産家であり資産運用家でもあったケインズならではであり、貧乏なジャーナリストだったマルクスには及びもつかない部分である。ケインズの嫌悪した金本位制ははるか昔のことであるが、タンス預金30兆円といわれる我が国において、この章の考察は極めて現代的だ。彼は貨幣を需要する心理について、投資をストップさせるだけでなく、人間本性に根付いたものと考えているようだが、この部分は難しい。そのためか、第17章は「一般理論」の中で最も難しい章といわれている。
「有効需要により雇用量が決定する」とは、現実の経済には均衡(一般均衡)が存在しないことを教えてくれる。完全雇用から離れても自動的に元に戻るような力は現実の経済には存在しない。我々はそんな幸福な世界には生きてはいない。ただ、一般均衡が存在しないと仮定するなら、マクロ経済学者は論文が書きにくいのだろう。ロバート・ルーカスが「こんな本は読まなくともよい」というのはもっともだ。経済学者になるには不要かもしれない。しかし現実の経済に取り組むためには必須の書物なのである。
21世紀の我々から見ると、この書物が現実の不況の有効な解決策を教えてくれるものとは思えない。それどころか、豊かさと失業とは表裏一体のものであることを教えてくれる。経済政策に過大な期待をするよりそれなりに失業と付き合うことを覚えたほうがよいかもしれない。