"流通を制する者が情報を制する"と言われた物理ネットワークの爆発的拡大直前を越え
"情報を制する者が流通を制する"力がその上層を覆い始めました
電気通信手段,コンピュータの一般化や私設化そして放送手段も無く飛行手段も無いマルクスの時代は進み
そしてあらゆる関係がリアルタイムに接近して来る現代はさらに進みます
物質的交通と精神的交通とが1対に存在するマルクスの時代は進み
両交通は一部で分離を始め精神的交通は論理空間の巨大化として私たちを形成し始めました
あらゆる情報と関係とが地球規模で私たちの前に一望に現れ
私たちの見るものを一瞬へと換え始めたと言えます
私たちの相互関係として歴史的に生まれた資本は
今や地球規模の巨大な経済システムを生み出しました
しかし私たちに課題を投げかけ
その存亡さえも私たちの制御すべき対象として浮上しています
どのように私たちは生きるのか
物質的交通と精神的交通との関係にそれを見いだしたマルクスは
資本論の執筆へと向かうことになったと思われます
資本論を読み継ぐディメンジョンを本題は与えてくれると思います
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ドイツ・イデオロギー 新編輯版 (岩波文庫) 文庫 – 2002/10/16
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唯物史観誕生の書.画期的な新訳決定版
- ISBN-104003412435
- ISBN-13978-4003412435
- 版新編輯
- 出版社岩波書店
- 発売日2002/10/16
- 言語日本語
- 本の長さ320ページ
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対象商品: ドイツ・イデオロギー 新編輯版 (岩波文庫)
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店; 新編輯版 (2002/10/16)
- 発売日 : 2002/10/16
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 320ページ
- ISBN-10 : 4003412435
- ISBN-13 : 978-4003412435
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2021年2月22日に日本でレビュー済み
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2013年2月24日に日本でレビュー済み
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AMAZON書評
マルクス・エンゲルス「ドイツイデオロギー」広松訳、岩波文庫、(原著1845,6)
1. ドイツイデオロギーの訳書で求めやすいのは、岩波文庫の古在訳、広松訳の二冊と国民文庫の三冊であろう。
広松訳では、マルクスが書いた部分と、エンゲルスが書いた部分が区別して訳されている。両者はお互いに書き入れ等行っており、両者が責任を持った共著であることに間違いはないのだが。
ただこのため素人には極めて読みにくい。
古在訳はフォイエルバッハについて以外の部分の抄訳がある点がよい。国民文庫は全集のフォイエルバッハについての部分である。
2. 経済学哲学手稿からドイツイデオロギーへ
経済学哲学手稿で触れられていた豊富な内容が、ドイツイデオロギー以降失われていった。
経済学哲学手稿では、特に資本と労働の矛盾という粒度における、個人の行為(特に労働)の対象化と一体化という矛盾の粒度で、これに対し、ドイツイデオロギーでは、特に資本と労働の矛盾という粒度の限定を外した全歴史の粒度における、経済の生産力と生産構造という矛盾の粒度で語られる。粒度とは、あるものの扱いの空間時間範囲、属性の選択範囲と属性の抽象度である。
経済学哲学手稿で資本と労働の対立を中心に述べられた粒度は、ドイツイデオロギーでは、歴史の長い時間粒度によって記述し直され、歴史の段階ごとの記述に不整合があり、また、記述のトレーサビリティに問題はあるものの、全体に分かりやすい記述に変わっている。一方、下記の項目は本書で扱われず「マルクス主義的定式化」によって失われた。
1) 価値観について:
多くの言葉を費やして説明されていた「類」としての生の記述がなくなっている。
2) 外部に対する機能について、3) 主体内部に対する機能について:
人間、対象、社会(つまり、制度)の同時変革が必要という記述がなくなっている。
感性についての豊かな記述がなくなっている。感性という言葉は数か所出てくるし、自己表出という注目すべき概念が新たに語られるが。
4) 一体化について:
外部に対する機能と主体内部に対する機能の相互作用についての記述がなくなっている。
自分と対象の対等の関係についての記述がなくなっている。
3. 経済学哲学手稿、ドイツイデオロギーの三つの粒度
経済学哲学手稿では、特に資本と労働の矛盾という粒度における、個人の行為(特に労働)の対象化と一体化という矛盾の粒度で内容が語られる。
これに対し、ドイツイデオロギーでは、全体として、生産力と生産構造という矛盾の粒度で語られる。粒度とは、あるものの扱いの空間時間範囲、属性の選択範囲と属性の抽象度である。
もう一つ、この中間に、ある組織の経済単位の粒度があり、その目的と具体的なその達成手段が、ドイツイデオロギーで述べられている。
大工業の現状は、労働者、サラリーマンに、分業の中から全体化、一体化を見通す論理能力を鍛えている。しかし現状は、それが売上と利益拡大という資本の目的に規定されていることも、多くの誠実な労働者、サラリーマンの身に沁みているところである。
売上と利益拡大という資本の目的から世界のための目的へ変え、かつそのための手段に変えることが必要な唯一のことである。
4. 「分業は悪」という間違い
一つの問題は、マルクス、エンゲルスが、分業は悪と決め付けていることである。必要なのは、分業の廃棄でなく、分業、分割と一体化の統合である。労働の分割は、労働の高度化のために必要である。大きな統合化、一体化が必要であるがまだ解決されていない。
分業の廃棄が達成されたらどうなるかを述べている「朝には狩りをし、昼には魚をとり、夕べには家畜を飼い、夕食の後には批判をする」という有名な文がある。この叙述は、多くの論者によって肯定的に引用されてきた。しかし、理想像としてこれほど貧弱な像があろうか?この貧弱さがマルクス、エンゲルスの間違いの実証になっている。
理想像は、少なくとも自由にかつ計画的意図的に、自分の能力開花と対象の高度な全面的変革のための多様な努力を行うことであるはずである。
単純否定でなく、「高める」否定でないというマルクス、エンゲルスの珍しい単純ミスであった。
5. マルクス主義は「唯物論」ではない、史的唯物論は哲学ではない
物質が意識を規定する粒度があることは、本書、ドイツイデオロギーで言うとおり、人間の生という基本の価値にてらして明らかである。
マルクス、エンゲルスは、物質が意識を規定する粒度を語り、他の意識一般、イデオロギーは、物質的条件に規定されていることを論証、実証する。これは歴史の早い段階では厳密に正しかった。かつマルクスは、これが歴史を作り人類最初の無階級社会ができることを述べる。しかし、第一に、歴史の進展に伴い、単なる食を中心にした生の生活から、文化的多様化が進み、生の属性である自由(対象、制度の認識、操作能力)と愛(自分以外の対象、制度への一体感とその価値増大への努力)の多様な展開が進む。
さらに、変更の粒度が問題となる。
基本は経済の変更だが、これも100%の規定を意味しない。意識が変更を補足する。さらに、これは個々の人の行為の粒度を含まない。個々の人の行為の粒度では、必ず、意識が他のものを規定する。これは、意図的行為においては、必ず、生産構造が生産力を規定するのと同様である。この問題は、歴史の発展の程度に関わらず、常に両方の粒度があることを示す。
要するに、人間にとって、物質が意識を規定する粒度が基本にはあるが、全部ではない。全く、意識が物質を規定する粒度がある。物質と意識の関連とは、これらの総体であり、どちらがどちらを規定するとは一言では言えないことは明らかである。かつ、今、この問題は、思想、哲学の問題でなく、科学の問題である。マルクス、エンゲルスが、物質が意識を規定する粒度の法則を見つけた時、その主張は、思想、哲学の立場だった。当時としては、一面で許されたかもしれないこの態度は、論じる場が科学に変わった今、間違いに転化して久しい。どの「マルクス主義者」も論じる場が科学に変わったことに眼をつむったままなのは不可解と言う外ない。
5. マルクス、エンゲルスのマルクス主義的態度である根源的網羅思考
マルクス、エンゲルスが書いたものだけでなく彼らの求めようとしたもの、解こうとした課題、今、彼らが生きていたなら解こうとしたであろう課題を解かねばならない。しかしこれは、世の「マルクス主義者」のやらない第一のことである。解くべき課題の全内容があり、ついでマルクス、エンゲルスが彼の時代の制約の中で問題意識を持って書き残したものがあり、その中に「マルクス主義的定式化」がされたと「マルクス主義者」が理解するものがあり、最後に「マルクス主義者」によるその「解説」がある。適切な数値化ではないかもしれないが、内容は一段階を経るごとに百分の一になり、この四段階を経た後に残っているのは、一億分の一になって香りの失せた残りかすである。
いかなる哲学、思想も、さらに方法でさえ、創始者が既存のものを見直す態度から生じた。この見直し続ける態度を学ばなければ、いかなる哲学、思想、方法も、例外なく停滞し、創始者の亜流の亜流になり下がるだけでなく堕落さえするというのは、歴史が示している教訓である。世の「マルクス主義者」のやらない第二は、このマルクス、エンゲルスのマルクス主義的態度を学ぶことである。
「それ自身の連関において把握された諸事実と一致しないあらゆる観念論的諸幻想を、容赦なく犠牲にしようと決心」し続け、マルクス、エンゲルスが行った、本来、相互依存性、同時決定性のある、大きな時間粒度と空間的時間粒度の理想の価値、現実、価値と現実を繋ぐ歴史の法則と実現運動論の各要素について、根源的に謙虚に批判的に、これも相互依存性、同時決定性のある、1) ある全体の粒度を考え抜き、2) 内部構造とサブ要素の粒度見直し, 3) 要素または要素の種類の網羅を行い続ける根源的網羅思考が、マルクス、エンゲルスのマルクス主義的態度であった。
3) 根源的網羅の第一の制約は、(対象の種類の網羅にも、対象の網羅にも共通に) 1) 全体の粒度と 2) 内部の細かさ(密度)つまり内部構造と個々の対象の粒度に依存するということである。つまり、困難さは、三項の相互依存性を同時解決することにある。例えば、袋に入った100個のボールが、10個ずつの小さな袋に入っているとする。全世界から100個のボールが入った袋を指定するのが、1) 全体の粒度である。対象が、100個のボールなのか、10個ずつのボールの入った小さな袋10袋なのかは、2) 内部の細かさ(密度)をどうとらえるかにもよるのである。
(高原利生、20130224,0830,20140727)
マルクス・エンゲルス「ドイツイデオロギー」広松訳、岩波文庫、(原著1845,6)
1. ドイツイデオロギーの訳書で求めやすいのは、岩波文庫の古在訳、広松訳の二冊と国民文庫の三冊であろう。
広松訳では、マルクスが書いた部分と、エンゲルスが書いた部分が区別して訳されている。両者はお互いに書き入れ等行っており、両者が責任を持った共著であることに間違いはないのだが。
ただこのため素人には極めて読みにくい。
古在訳はフォイエルバッハについて以外の部分の抄訳がある点がよい。国民文庫は全集のフォイエルバッハについての部分である。
2. 経済学哲学手稿からドイツイデオロギーへ
経済学哲学手稿で触れられていた豊富な内容が、ドイツイデオロギー以降失われていった。
経済学哲学手稿では、特に資本と労働の矛盾という粒度における、個人の行為(特に労働)の対象化と一体化という矛盾の粒度で、これに対し、ドイツイデオロギーでは、特に資本と労働の矛盾という粒度の限定を外した全歴史の粒度における、経済の生産力と生産構造という矛盾の粒度で語られる。粒度とは、あるものの扱いの空間時間範囲、属性の選択範囲と属性の抽象度である。
経済学哲学手稿で資本と労働の対立を中心に述べられた粒度は、ドイツイデオロギーでは、歴史の長い時間粒度によって記述し直され、歴史の段階ごとの記述に不整合があり、また、記述のトレーサビリティに問題はあるものの、全体に分かりやすい記述に変わっている。一方、下記の項目は本書で扱われず「マルクス主義的定式化」によって失われた。
1) 価値観について:
多くの言葉を費やして説明されていた「類」としての生の記述がなくなっている。
2) 外部に対する機能について、3) 主体内部に対する機能について:
人間、対象、社会(つまり、制度)の同時変革が必要という記述がなくなっている。
感性についての豊かな記述がなくなっている。感性という言葉は数か所出てくるし、自己表出という注目すべき概念が新たに語られるが。
4) 一体化について:
外部に対する機能と主体内部に対する機能の相互作用についての記述がなくなっている。
自分と対象の対等の関係についての記述がなくなっている。
3. 経済学哲学手稿、ドイツイデオロギーの三つの粒度
経済学哲学手稿では、特に資本と労働の矛盾という粒度における、個人の行為(特に労働)の対象化と一体化という矛盾の粒度で内容が語られる。
これに対し、ドイツイデオロギーでは、全体として、生産力と生産構造という矛盾の粒度で語られる。粒度とは、あるものの扱いの空間時間範囲、属性の選択範囲と属性の抽象度である。
もう一つ、この中間に、ある組織の経済単位の粒度があり、その目的と具体的なその達成手段が、ドイツイデオロギーで述べられている。
大工業の現状は、労働者、サラリーマンに、分業の中から全体化、一体化を見通す論理能力を鍛えている。しかし現状は、それが売上と利益拡大という資本の目的に規定されていることも、多くの誠実な労働者、サラリーマンの身に沁みているところである。
売上と利益拡大という資本の目的から世界のための目的へ変え、かつそのための手段に変えることが必要な唯一のことである。
4. 「分業は悪」という間違い
一つの問題は、マルクス、エンゲルスが、分業は悪と決め付けていることである。必要なのは、分業の廃棄でなく、分業、分割と一体化の統合である。労働の分割は、労働の高度化のために必要である。大きな統合化、一体化が必要であるがまだ解決されていない。
分業の廃棄が達成されたらどうなるかを述べている「朝には狩りをし、昼には魚をとり、夕べには家畜を飼い、夕食の後には批判をする」という有名な文がある。この叙述は、多くの論者によって肯定的に引用されてきた。しかし、理想像としてこれほど貧弱な像があろうか?この貧弱さがマルクス、エンゲルスの間違いの実証になっている。
理想像は、少なくとも自由にかつ計画的意図的に、自分の能力開花と対象の高度な全面的変革のための多様な努力を行うことであるはずである。
単純否定でなく、「高める」否定でないというマルクス、エンゲルスの珍しい単純ミスであった。
5. マルクス主義は「唯物論」ではない、史的唯物論は哲学ではない
物質が意識を規定する粒度があることは、本書、ドイツイデオロギーで言うとおり、人間の生という基本の価値にてらして明らかである。
マルクス、エンゲルスは、物質が意識を規定する粒度を語り、他の意識一般、イデオロギーは、物質的条件に規定されていることを論証、実証する。これは歴史の早い段階では厳密に正しかった。かつマルクスは、これが歴史を作り人類最初の無階級社会ができることを述べる。しかし、第一に、歴史の進展に伴い、単なる食を中心にした生の生活から、文化的多様化が進み、生の属性である自由(対象、制度の認識、操作能力)と愛(自分以外の対象、制度への一体感とその価値増大への努力)の多様な展開が進む。
さらに、変更の粒度が問題となる。
基本は経済の変更だが、これも100%の規定を意味しない。意識が変更を補足する。さらに、これは個々の人の行為の粒度を含まない。個々の人の行為の粒度では、必ず、意識が他のものを規定する。これは、意図的行為においては、必ず、生産構造が生産力を規定するのと同様である。この問題は、歴史の発展の程度に関わらず、常に両方の粒度があることを示す。
要するに、人間にとって、物質が意識を規定する粒度が基本にはあるが、全部ではない。全く、意識が物質を規定する粒度がある。物質と意識の関連とは、これらの総体であり、どちらがどちらを規定するとは一言では言えないことは明らかである。かつ、今、この問題は、思想、哲学の問題でなく、科学の問題である。マルクス、エンゲルスが、物質が意識を規定する粒度の法則を見つけた時、その主張は、思想、哲学の立場だった。当時としては、一面で許されたかもしれないこの態度は、論じる場が科学に変わった今、間違いに転化して久しい。どの「マルクス主義者」も論じる場が科学に変わったことに眼をつむったままなのは不可解と言う外ない。
5. マルクス、エンゲルスのマルクス主義的態度である根源的網羅思考
マルクス、エンゲルスが書いたものだけでなく彼らの求めようとしたもの、解こうとした課題、今、彼らが生きていたなら解こうとしたであろう課題を解かねばならない。しかしこれは、世の「マルクス主義者」のやらない第一のことである。解くべき課題の全内容があり、ついでマルクス、エンゲルスが彼の時代の制約の中で問題意識を持って書き残したものがあり、その中に「マルクス主義的定式化」がされたと「マルクス主義者」が理解するものがあり、最後に「マルクス主義者」によるその「解説」がある。適切な数値化ではないかもしれないが、内容は一段階を経るごとに百分の一になり、この四段階を経た後に残っているのは、一億分の一になって香りの失せた残りかすである。
いかなる哲学、思想も、さらに方法でさえ、創始者が既存のものを見直す態度から生じた。この見直し続ける態度を学ばなければ、いかなる哲学、思想、方法も、例外なく停滞し、創始者の亜流の亜流になり下がるだけでなく堕落さえするというのは、歴史が示している教訓である。世の「マルクス主義者」のやらない第二は、このマルクス、エンゲルスのマルクス主義的態度を学ぶことである。
「それ自身の連関において把握された諸事実と一致しないあらゆる観念論的諸幻想を、容赦なく犠牲にしようと決心」し続け、マルクス、エンゲルスが行った、本来、相互依存性、同時決定性のある、大きな時間粒度と空間的時間粒度の理想の価値、現実、価値と現実を繋ぐ歴史の法則と実現運動論の各要素について、根源的に謙虚に批判的に、これも相互依存性、同時決定性のある、1) ある全体の粒度を考え抜き、2) 内部構造とサブ要素の粒度見直し, 3) 要素または要素の種類の網羅を行い続ける根源的網羅思考が、マルクス、エンゲルスのマルクス主義的態度であった。
3) 根源的網羅の第一の制約は、(対象の種類の網羅にも、対象の網羅にも共通に) 1) 全体の粒度と 2) 内部の細かさ(密度)つまり内部構造と個々の対象の粒度に依存するということである。つまり、困難さは、三項の相互依存性を同時解決することにある。例えば、袋に入った100個のボールが、10個ずつの小さな袋に入っているとする。全世界から100個のボールが入った袋を指定するのが、1) 全体の粒度である。対象が、100個のボールなのか、10個ずつのボールの入った小さな袋10袋なのかは、2) 内部の細かさ(密度)をどうとらえるかにもよるのである。
(高原利生、20130224,0830,20140727)
2023年10月16日に日本でレビュー済み
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若い頃に読んだ版はもっと薄くて読みやすかった記憶が?版同士の異動や細かい注釈(講釈?)が増えて、いかにも文献学的になったけれど、これでは一部の専門家しか読めないのでは?読みやすく整理した版がほしいです。
2022年7月3日に日本でレビュー済み
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これは読めない。内容の判断までいきつかない。
内容的な難易度ではなく、やはりテクストとして問題を抱えている。
翻訳云々の次元ではなく、フォントが異なり、括弧表記が複数にわたり、太字が散りばめられ、注釈が頻発し、初めて見た記号で中途半端な文章まで残されている。
いわば、推敲段階の手稿を出版している。
間違っていけないのは、本書はそれが狙いである。
だが、出版の意味を考えたとき、この本はその域に到達していない。
未完成さを再現していることは認めるので、研究者には文献として大いに役立つものなのかもしれない。
読書家の1人として申し上げたいのは、本というコストは、完成された情報であってほしい。
内容的な難易度ではなく、やはりテクストとして問題を抱えている。
翻訳云々の次元ではなく、フォントが異なり、括弧表記が複数にわたり、太字が散りばめられ、注釈が頻発し、初めて見た記号で中途半端な文章まで残されている。
いわば、推敲段階の手稿を出版している。
間違っていけないのは、本書はそれが狙いである。
だが、出版の意味を考えたとき、この本はその域に到達していない。
未完成さを再現していることは認めるので、研究者には文献として大いに役立つものなのかもしれない。
読書家の1人として申し上げたいのは、本というコストは、完成された情報であってほしい。
2014年9月28日に日本でレビュー済み
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1970年代、自分たちの絶対性に拘泥する人々の雑音の中で何度も読んだが、今回の場合、そういった人々の発言の記憶から自由になり、久しぶりに読み直してみると、マルクスの状況への真摯な取り組みと、分析、実践への強い動機に信じられないような可能性を実感した。マルクスはマルクスであり、マルクス主義ではない。
2020年7月21日に日本でレビュー済み
フォイエルバッハの部分は哲学をやっていないと全く理解出来ない。とっちらかった草稿ばかりなので尚更だ。当時の学問は、まず哲学から入ったのかもしれない。哲学もいずれ取り組まなければならないが、その時に再読だ。本論部分になりやっと大昔にやった社会発展史を思い出した。P145で「中世の大きな蜂起はすべて農村から起こったが、これも、農民たちの分散状態とその結果としての未熟さのために、総じて不成功に終わった。」とあるが、どのようなものだったのか気になった。それにしてもこれを記したマルクス/エンゲルスは知の巨人だ。膨大な情報源をもとに、先行研究を踏み越えた論文を作成する現代とは訳が違う。畏怖すべきかな。