技術的な斬新さというのは、生まれたときから映画はそうだった我々には、よく分からない。だから撮影技術上のことはウィキペディアにまかせます。「市民ケーンwiki」でグーグルしてください。よく書けています。
主人公は「煽動ジャーナリスト」だったり「コミュニスト」だったり「戦うリベラル」だったり「ファシスト」だったり、フランコ将軍やヒットラーと付き合ったり、「愛国者」だったり「民主主義者」だったり、新聞には「戦争屋」や「日和見主義者」や「売国奴」や「空想家」とかかれたり、時と場合によってめまぐるしくしかも脈絡無く変化する。これは何故なのか。
それを解く鍵が「バラのつぼみ」に他ならない。【以下ネタバレしますのでご注意ください。でも意味が分からないかも】
バラのつぼみは、橇のことだった。それが映るのは、雪の日の両親との別れのシーンである。
夫婦の会話から、チャールズをサッチャーに後見人として預ける決心をしたのは、他ならぬ「母親」だという事が分かる。しかし、「何故」というのがなかなか分からない。
ケーンは行くのがいやなので橇でサッチャーのお腹を殴る。
すると父親はこういう。【字幕】
父親「すみません お仕置きを(チャールズにします)」
母親「いつもそうなのね」
父親「イエス」
母親「だからこの子を手放すのよ」
これでは何が何だかさっぱり分からない。この映画の字幕は肝心なことを訳してないのでこの映画が大変分かりにくくなっているが、英語ではこう言っている。
父” Sorry, Mr. Thatcher! What the kid needs is a good thrashing!” 【済みませんサッチャー様。このガキにはうんと痛い目に合わせますだ】
母”That's what you think, is it, Jim?”【それがあなたの考えることなのね、ジム】
父” Yes.”【そうだ】
母” That's why he's going to be brought up where you can't get at him.”
【だからこの子はあなたの手の届かないところに置かなくてはならないのよ】
つまり、母親はチャールズを「役立たずで子供に乱暴を振るう愚か者の父親」から遠ざけて、愛するわが子の将来のために手放したのだ、ということが分かる。五歳の子供を手放すのは、親を経験した人なら分かるが、こんなに辛いものは無い。チャールズの母親は強い愛の人だった。その事は子供のチャールズには理解できないが、25歳の時にはもう分かっていたはずだ。母親の愛情がいかに強いものだったかを。
そうして、今は亡き母親の強い愛情を求めて、ケーンの旅が始まる。権力を志向したのは、それによって「自分が愛される」からだ。クロニクル紙が手に入ると、次に狙ったのは強い女性。選んだ相手が大統領の姪というのは象徴的だ。ケーンの求めたものは「愛されること」である。強い愛で包んでくれた自分の母親の愛のように。
リーランドは言う。
「ケーンは愛に飢えていた。政治にも求めた。彼は投票者にすら愛情を求めた。」
「もちろん自分のことは一番愛していた。それと母親も。」
そしてスーザンに出逢う。
スーザンは孤独。ケーンも孤独だった。孤独同士が親しくなるのに時間はかからない。ケーンは州知事に立候補していた【ここでも権力志向が現れている】が、対立候補のジェームス・ゲティスにスキャンダルを暴かれ、政治家としては終わる。
ゲティスはケーン夫妻の前で言う。「もし私も新聞社をもっていたらそれを選挙のために活用しただろう」「だが子供が傷つくような記事を載せたりはしない」この後半のセリフが大事だ。この字幕では何のことか分からないが、英語ではこう言っている。
「Only I wouldn't show him in a convict suit, with stripes - so his children could see the picture in the paper. Or his mother.」
【しかし、政敵に縞々の囚人服を着せた絵を、その子供や母親が見るのを分かっていて新聞に載せるようなことはしない】
ケーンは政敵ジェームス・ゲティスに対してこれをやったということが分かるセリフなのである。ケーンはあくどい男なのだ。
(しかも相手のセリフは最後に「マザー」である。「母親が傷つく」という言葉にケーンが傷ついたことは想像に難くない)
母親のような強い愛をスーザンにも求めたが、スーザンの公演は失敗。レビューを自分で書くが、画面に映るのはweakの四文字。弱い、だ。スーザンは自殺を図るがケーンは「薬を間違えた」と言って体面を繕い、自分の責任を隠す。
ケーンは母親の代わりを見つけられず、ザナドゥを作り始める。これは勿論母親の胎内のメタファだ。暗くて居心地がよく、何者からも守られている場所。最後までケーンが求めていたのは、母親の強い愛と庇護のもとに遊んでいたあの雪の日だった。
市民ケーンというのは「アメリカ市民」ケーンの事だろう。上昇志向で勝者になったのは正に「アメリカの価値観」である。その勝者のモチベーションが母親の愛情への飢餓だった事をこの映画は示している。それがアメリカ人の悲劇(アメリカ人が基本マザコンなのは多くの映画のテーマになっている)に通じるからこそ、この映画はいまでも(特にアメリカで)支持されるのだろう。奥行きがあって面白い映画だと思う。しかし共感する背景のない日本人の自分にとってベスト1になるような映画では無いのです。なので★みっつにします。