著者の現代語訳は現在に合わせたとても分かりやすいものでした。今までビギナー向けの仏教本を読みましたが、この正法眼藏で仏教との向き合いかたがわかったような気になりました。
道元が在家に向けて発信した、というところも納得出来ました。

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[新訳]正法眼蔵 迷いのなかに悟りがあり、悟りのなかに迷いがある 単行本(ソフトカバー) – 2013/6/20
『正法眼蔵』は、日本における曹洞宗の開祖・道元の主著。生涯を掛けて全100巻の著となる構想だったが、54歳で示寂し、未完の大著となった。
同著は、哲学的で難解といわれているが、たとえば道元思想のキイ・ワード「身心脱落」について、訳者は「角砂糖が湯の中に溶け込んだとき、角砂糖が消滅したのではないのです。ただ角砂糖という状態――それが<俺が、俺が……>といった自我意識です――でなくなっただけです。砂糖は湯の中に溶け込んでいるように、自己は悟りの世界に溶け込んでいるのです。身心脱落とはそういうことです。」と、わかりやすく解説を加える。
坐禅の指南書としてではなく、釈迦の教え、すなわち仏教を正しく理解するための智慧を与えてくれる書として読み解きたい一冊。
同著は、哲学的で難解といわれているが、たとえば道元思想のキイ・ワード「身心脱落」について、訳者は「角砂糖が湯の中に溶け込んだとき、角砂糖が消滅したのではないのです。ただ角砂糖という状態――それが<俺が、俺が……>といった自我意識です――でなくなっただけです。砂糖は湯の中に溶け込んでいるように、自己は悟りの世界に溶け込んでいるのです。身心脱落とはそういうことです。」と、わかりやすく解説を加える。
坐禅の指南書としてではなく、釈迦の教え、すなわち仏教を正しく理解するための智慧を与えてくれる書として読み解きたい一冊。
- 本の長さ244ページ
- 言語日本語
- 出版社PHP研究所
- 発売日2013/6/20
- ISBN-104569812708
- ISBN-13978-4569812700
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商品の説明
著者について
宗教研究家
登録情報
- 出版社 : PHP研究所 (2013/6/20)
- 発売日 : 2013/6/20
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 244ページ
- ISBN-10 : 4569812708
- ISBN-13 : 978-4569812700
- Amazon 売れ筋ランキング: - 406,402位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 7,938位宗教 (本)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2014年12月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2023年5月18日に日本でレビュー済み
正法眼蔵は現代文に訳されていても、読んで理解するのが難しいです。
何度か挑戦してみましたが、読むだけでも最後まで到達すること叶いませんでした。
本書は、ひろさちや氏の解釈が多分に盛り込まれてはいると思いますが、
(人文系である限り、このことは避けようがありません)
キーワードを絞り込んだうえで、わかりやすい訳と解説がなされていますので、
入門書として正法眼蔵を少しでも理解するのには良い本だと思います。
なお、ウパニシャッドを多少かじっているせいか、
道元の主張がウパニシャッドに先祖がえりしているように思えてきます。
ただ、4仏性の中で
「偏界我有は外道の邪見なり」を
「全世界が我(アートマン)のつくったものだというのは、外道(仏教以外の思想家)が唱える邪説である」と訳していますが、
我=アートマンとするのはおかしいと思います。
一切衆生悉有仏性を、一切の衆生が悉有(全宇宙)であり、悉有が仏性である、と道元が再定義しているのであれば、
一切衆生悉有仏性=ブラフマンであり、梵我一如の観点からはブラフマン=アートマンだからです。
多分ですが、文脈からすると、ここの我は「自我」であり、アートマンとは異なるものです。
2016年読了
何度か挑戦してみましたが、読むだけでも最後まで到達すること叶いませんでした。
本書は、ひろさちや氏の解釈が多分に盛り込まれてはいると思いますが、
(人文系である限り、このことは避けようがありません)
キーワードを絞り込んだうえで、わかりやすい訳と解説がなされていますので、
入門書として正法眼蔵を少しでも理解するのには良い本だと思います。
なお、ウパニシャッドを多少かじっているせいか、
道元の主張がウパニシャッドに先祖がえりしているように思えてきます。
ただ、4仏性の中で
「偏界我有は外道の邪見なり」を
「全世界が我(アートマン)のつくったものだというのは、外道(仏教以外の思想家)が唱える邪説である」と訳していますが、
我=アートマンとするのはおかしいと思います。
一切衆生悉有仏性を、一切の衆生が悉有(全宇宙)であり、悉有が仏性である、と道元が再定義しているのであれば、
一切衆生悉有仏性=ブラフマンであり、梵我一如の観点からはブラフマン=アートマンだからです。
多分ですが、文脈からすると、ここの我は「自我」であり、アートマンとは異なるものです。
2016年読了
2019年3月9日に日本でレビュー済み
現代に使わない特殊な用語が現代語になっているのはいいが、現代語訳、原文の次に著者の勝手な解釈が記述されている。誤訳もあるので、そこは飛ばして読むのが吉。
2015年1月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
空海に触れ、道元にたどり着いた。解釈の違いはあれ、昔の修行者は偉かった。現在のところ、科学の進歩は、ようやく宇宙の神業にたどり着き、物理を超え、精霊の研究こそすべての答えとなるであろうと私は思っている。別に何かに悩んでいるわけではないのですが、宇宙を体に感じようとする道元の禅の教えは、私には勉強になりました。
2013年9月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
難解な正法眼蔵を読みたいと考えていたが、わかりやすく解説された本がなく、これまでに機会がなかった。ひろさちやによる解説はわかりやすく、少しわかったような気にさせてくれる印象があり、今回も読ませていただいた。案に違わず少しはその真髄が理解出来たのではないかと密かに満足している。
2020年10月1日に日本でレビュー済み
この本を手にする人には道元初心者も多いでしょうから、とりあえずこの書物の根本的な誤りを指摘しておきます。
まず、ひろ氏は道元の意図を完全に曲解しています。
氏によれば道元のいう悟りとは、いい音楽を聴いたときに「わたしが音楽の中に溶け込む」、「わたしと音楽が一つになって」いる状態のことだそうです。これだと、悟りとは結局“没我の境地”や“意識の集中”と同じことで、私たちが比較的身近に体験するところです。しかし、これはむしろ道元の否定するところで、正法眼蔵には全くそのようなことは書かれていません。そもそも、どんな形であれ本人に自覚できるような悟りのことを道元は一切説いたことがありません。
道元が悟りを「身心脱落」と表現したのは事実ですが、それをまたひろ氏は勝手に解釈して、自我という角砂糖を湯に放り込んで溶かしてしまった状態、と譬えます。ひろ氏のお気に入りの譬えのようですが、はて、溶かせば形は無くなっても働き(味)はそのままだがそれでいいのか、ここでの湯とは何を意味するのか、溶かしきったらもとには戻らないがそれでよいのか、そもそも溶かすためにはどうすればよいのか・・・、当然浮かぶ疑問の数々に対する答えは一切ありません。
ひろ氏の珍妙な譬えを待つまでもなく、「身心脱落」の意味を道元本人がわかりやすい譬えで示しています。それは「水に月のやどるがごとし」(『現成公案』)というもの。静かな水には、たとえそれが一滴の水であっても大きな月の姿が欠けることなく映り、水も月も互いを妨げません。その様子に託して、常に外に働き出ようとする自我を静めたところにのみ実は常に存在する悟りという月の姿があらわれること、そして水は月を映すという自覚もなく、映した後も変わらず水のままである、という我々と悟りとの関係を的確に表現したものです。
道元自身のこの完璧な譬えをあえて採らず、ひろ氏が自身の珍妙な譬えに固執する理由は不明ですが、ひとつはっきりしているのは氏が坐禅の意味を明らかに軽視しているということです。道元自身は「坐禅がそのまま身心脱落である」、「身心脱落とは坐禅である」と何度も表現しています。道元にとって、悟りとはいかに説かれようとも、坐禅を抜きにしてはあり得ないものなのです。
ところが、坐禅を軽視する氏はこれを認めたくないために、わざわざ(道元の書いていることを無視して)悟りを坐禅と関係ないところに位置づけようとするのです。氏は日常の起居全てが禅であると言いたいようですが、だからといって道元の悟りを語るのに核心である坐禅を無視することはあってはならない話です。道元が「参禅は、身心脱落なり。祇管に打坐して始めて得べし」(『三昧王三昧』巻)と説いている、という根本のところを重く受け止めなければなりません。ましてや初心者向けに解説するのであれば、何をおいてもそこのところをこそ説かなければ、正法眼蔵の解説ではなくて得手勝手な“ひろさちや教”の概説にしかなり得ないでしょう。
とにかくこの本は問題が多いと思います。初心者向けの読本こそ、実は知り抜いた人にしか書き得ないものと思います。読みやすいが不確かな書物で手っ取り早く分かった気になるよりは、難しくとも正しい書物を読む努力を続けるべきでしょう。正法眼蔵はそういうことを読者に求める書物であるように思います。
まず、ひろ氏は道元の意図を完全に曲解しています。
氏によれば道元のいう悟りとは、いい音楽を聴いたときに「わたしが音楽の中に溶け込む」、「わたしと音楽が一つになって」いる状態のことだそうです。これだと、悟りとは結局“没我の境地”や“意識の集中”と同じことで、私たちが比較的身近に体験するところです。しかし、これはむしろ道元の否定するところで、正法眼蔵には全くそのようなことは書かれていません。そもそも、どんな形であれ本人に自覚できるような悟りのことを道元は一切説いたことがありません。
道元が悟りを「身心脱落」と表現したのは事実ですが、それをまたひろ氏は勝手に解釈して、自我という角砂糖を湯に放り込んで溶かしてしまった状態、と譬えます。ひろ氏のお気に入りの譬えのようですが、はて、溶かせば形は無くなっても働き(味)はそのままだがそれでいいのか、ここでの湯とは何を意味するのか、溶かしきったらもとには戻らないがそれでよいのか、そもそも溶かすためにはどうすればよいのか・・・、当然浮かぶ疑問の数々に対する答えは一切ありません。
ひろ氏の珍妙な譬えを待つまでもなく、「身心脱落」の意味を道元本人がわかりやすい譬えで示しています。それは「水に月のやどるがごとし」(『現成公案』)というもの。静かな水には、たとえそれが一滴の水であっても大きな月の姿が欠けることなく映り、水も月も互いを妨げません。その様子に託して、常に外に働き出ようとする自我を静めたところにのみ実は常に存在する悟りという月の姿があらわれること、そして水は月を映すという自覚もなく、映した後も変わらず水のままである、という我々と悟りとの関係を的確に表現したものです。
道元自身のこの完璧な譬えをあえて採らず、ひろ氏が自身の珍妙な譬えに固執する理由は不明ですが、ひとつはっきりしているのは氏が坐禅の意味を明らかに軽視しているということです。道元自身は「坐禅がそのまま身心脱落である」、「身心脱落とは坐禅である」と何度も表現しています。道元にとって、悟りとはいかに説かれようとも、坐禅を抜きにしてはあり得ないものなのです。
ところが、坐禅を軽視する氏はこれを認めたくないために、わざわざ(道元の書いていることを無視して)悟りを坐禅と関係ないところに位置づけようとするのです。氏は日常の起居全てが禅であると言いたいようですが、だからといって道元の悟りを語るのに核心である坐禅を無視することはあってはならない話です。道元が「参禅は、身心脱落なり。祇管に打坐して始めて得べし」(『三昧王三昧』巻)と説いている、という根本のところを重く受け止めなければなりません。ましてや初心者向けに解説するのであれば、何をおいてもそこのところをこそ説かなければ、正法眼蔵の解説ではなくて得手勝手な“ひろさちや教”の概説にしかなり得ないでしょう。
とにかくこの本は問題が多いと思います。初心者向けの読本こそ、実は知り抜いた人にしか書き得ないものと思います。読みやすいが不確かな書物で手っ取り早く分かった気になるよりは、難しくとも正しい書物を読む努力を続けるべきでしょう。正法眼蔵はそういうことを読者に求める書物であるように思います。
2021年3月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
言葉がとてもわかりやすく、本意も凡そとらえているので、解釈を含めた私訳がとても参考になることは確かです。
しかし、誤訳が多い、真逆の解釈になっているとこすらあります。
ある程度、道元に対して知識がないと普通に騙されます。
しかし、誤訳が多い、真逆の解釈になっているとこすらあります。
ある程度、道元に対して知識がないと普通に騙されます。
2022年9月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
講談社学術文庫で八巻ありますが、相当 簡単にざっくりまとめてあります。とにかくこれは一体なんなのかざっくり触りを知りたい方には良いと思います。こういう本を作る方がむしろ難しいと思います。原文が長いので、短くするのって凄いと思いました。感謝します。