徳川家康と天海僧正:鬼門・裏鬼門封じと地鎮信仰で構築した都市デザインについて

今日(12月26日)は、徳川家康が生誕した日(天文11年12月26日(1543年1月31日))です。

以前、鬼門※)に関する整理の中で江戸の件について少し触れましたが、そこに関わる天海僧正とその都市デザインについて、簡単に整理しておきたいと思います。
※)『陰陽道 鬼門について』も参考にしてください。
※)もうひとつの話題については、こちらを参考にしてください。
三英傑と光秀にみる、相生相剋の関係

江戸城・皇居は風水や鬼門を緻密に計算して作られていたと言われていますが、これらを最大限に利用した代表的な歴史上の人物は、徳川家康です。
その江戸城に徳川家康が幕府を置いたのは、天台宗の大僧正・天海の勧めだと言われています。
天海僧正は、陰陽五行説にある「四神相応」の考えを元に江戸城を中心として四方結界を張り、
・北を守護する上野の寛永寺
・鬼門(東北)を守護する神田明神
・南を守護する増上寺
・裏鬼門(西南)を守護する日枝神社
を建築しました。
また、徳川家とゆかりが深い東京タワーの麓にある増上寺は東京の守り神と言われおり、この増上寺から鬼門の北東に向けて直線上にはお寺や神社をずらりと並べ、不吉とされている鬼門の方角を寺や神社で封じ清めたと言われています。
江戸の三大祭といえば、湯島の神田神社の神田祭と浅草寺(幕府の祈願所とし、家康を東照大権現として祀っていた)の三社祭と日枝神社の山王祭ですが、これらの祭は江戸城の鬼門と裏鬼門を祀り浄める意味合いが秘められていました。
そして、徳川家の菩提寺となった寛永寺と増上寺、それに神田神社を結ぶ直線と、浅草寺と日枝神社を結ぶ直線が交わる点には、江戸城が位置していることがわかります。
そして、鬼門とともに厄除けで重要な方位が北ですが、江戸の真北に日光東照宮を建立し、家康は亡くなった後も自らが関東の守り神として260年もの長きに渡り、江戸を守護していたと言われています。

さらに天海は、鬼門・裏鬼門封じと地相といった陰陽道の力だけでなく、平将門公の地鎮信仰も利用しています。
大手町の首塚で有名な平将門公ですが、そもそもこの地の近隣には神田神社があり、将門公の胴体を祀っていました。(神田とは「からだ」に由来するとも言われています)
天海は首塚はそのまま残した上で神田神社を湯島の地に移しています。

実は、将門公の身体の一部や身につけていたものを祀った神社や塚は江戸の各所に存在し、それらは全て主要街道と「の」の字型の堀の交点に鎮座していると言われています。
・首塚は奥州道へと繋がる大手門、
・胴を祀る神田神社は上州道の神田橋門、
・手を祀る鳥越神社は奥州道の浅草橋門、
・足を祀る津久土八幡神社は中山道の牛込門、
・鎧を祀る鐙神社は甲州道の四谷門、
・兜を祀る兜神社は東海道の虎ノ門
という配置です。
絵にすると、ざっとこんな感じです。

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これら主要街道と堀の交点には橋が架けられ、城門と見張所が設置されて「見附」という要所にしたのですが、天海はその出入口に将門公の地霊を祀ることによって、江戸の町に街道から悪霊が入り込むのを防止する狙いがあったとみられています。
天海は、民衆が奉じる地鎮の信仰と機能的な町づくりを上手く融合させた上で、江戸の町を守護する仕組みを見事にデザインしていた訳です。

このように、江戸の町は街道や掘割といった機能面での仕組みに加え、天海の徹底した鬼門・裏鬼門封じと地相、地鎮信仰を使って構築されたもの。
一度は焼け野原になりながらも現在の東京の発展の理由のひとつは、天海が敷いた完璧な都市デザインがベースにあったから、と言えなくもないのかもしれません。

なお、こうした方除け寺社は各地にもありますが、江戸では伝通院(徳川家康の生母伝通院の菩提寺。鬼門の上野・寛永寺、裏鬼門の芝・増上寺とともに、江戸城下を守護する徳川将軍家菩提寺として江戸三霊山とされた)、築土神社・筑土八幡神社(鬼門の神田明神、裏鬼門の山王権現(日枝神社)とともに江戸三社に数えられることがある)。
関東では、妙義神社(関東平野の北西の妙義山に位置し、関東の鬼門に位置する日光山(輪王寺、二荒山神社)、裏鬼門に位置する箱根山(箱根権現・箱根神社)とともに関東の守護神として、徳川将軍家の厚い崇敬を受けた)、世良田東照宮(徳川家康を祀る徳川氏氏神の東照宮を配し、鬼門の日光東照宮、裏鬼門の久能山東照宮とともに徳川将軍家を守護した)などが、守護と家運永久子孫繁昌を願って建立されています。

もう少し余談を加えておきます。

徳川の繁栄に万全を期すため、将軍家に世継ぎが生まれなかった場合は、徳川御三家の尾張あるいは紀州から世継ぎを迎える形で、しっかりといた血筋を絶やさない仕組みを構築していました。
そんな中、徳川御三家の水戸は江戸城から見て鬼門の方位だったため、常に江戸にあって将軍家を支えつつも、決して将軍を出してはならないという決まりがあったそうです。
そもそも徳川幕府を作り上げるときに、水戸から将軍を出すときが幕府の終わるときである、という訓戒があったためなのですが、結局徳川最後の将軍徳川慶喜が最初の水戸出身だったために、二百六十年もの間戦乱もなく平和が続いた江戸時代は、ここで絶える訳です。

当時は世界でも稀に見る大変革の時代ですが、これひとつとっても鬼門や陰陽道の考え方が単なる風習だけで片づけられない理由がそこにあるのです。

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さて、ではもうひとつ、ふたつほど関連した話題に触れておきます。

ここからはかなり都市伝説に近い話しも含まれています。
信憑性の真偽もあるので、ご興味や話題性の範疇としてご理解ください。
話題は、明治時代以降の結界についてです。

徳川幕府が終わったことで、その封印が解けたと判断した明治政府は、改めて鬼門を封印しようと試みます。
現に明治政府は平将門公にまつわる七つの神社を分断するように、靖国神社を中心として結界にしたといわれています。
明治政府の結界の基点は以下です。
・靖国神社・・・国のために戦死した人々を顕彰
・谷中霊園・・・明治6年に出来た神式公共霊園
・雑司ヶ谷霊園・明治6年に出来た神式公共霊園
・築地本願寺・・江戸最大の庶民の墓所
・青山霊園・・・明治6年に出来た神式公共霊園
※)谷中霊園から青山霊園を結ぶエリアは、靖国神社を中心に正確な長方形をなしています。
絵にすると、ざっとこんな感じです。

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しかし、その後も日清戦争(1894年から1895年)、日露戦争(1904年から1905年)、第一次世界大戦(1914年から1918年)といった戦争混乱の時代が続いたことから、度重なる戦乱を将門の呪いと考え、さらに強力な結界を作ることを計画。
その結界こそ、霊的に非常に強い結界力を持つと言われる鉄の線路で囲んだ山の手線と言われています。
1883年(明治16年)7月28日に上野駅を起点として開業し、市街を巡る大都市の基幹交通路線として運行を開始したのは1909年(明治42年)でした。
そして、環状運転が実施される(=結界が完成する)直前の1923年、東京を関東大震災が襲ったのです。
結果山手線が完成したのは1925年のことですが、それでも結界の力は十分に働かず、第二次世界大戦へと突入した、と言われているそうです。(どうとらえるのかはあなた次第です)

更に、東京にまつわる災害の符号ですが、そのひとつにタワーがあると言われています。

まずは、凌雲閣。
これは1890年に開業し、大正末期まで東京・浅草(浅草寺の近く)にあった当時の建築物としては最高の12階建ての塔です。
凌雲閣は「浅草十二階」とも呼ばれていたのですが、1923年の関東大震災で半壊し、その後取り壊して二度と建て直すことはありませんでした。
山手線による結界を完成しようとやっきになっていた時期と一致します。

そして東京タワーと東京スカイツリーです。
東京タワーは、皇居から見て裏鬼門を守る一角として設計されており、一種の鬼門封じであると言われていました。
しかし、一昨年(2012年5月)に東京スカイツリーが完成する直前、東日本大震災が起きています。
実は東京スカイツリーと東京タワーを線で結ぶと、上記で述べた明治政府が敷いた靖国神社を中心とする長方形の封印や山手線の結界を切り裂く形になっているのです。
霊峰富士山から東京八王子の高尾山に続く龍脈は東京の中心・皇居へと流れていると言われていますが、鬼門方向に建てられた東京スカイツリーが結界を壊しているとなると、この龍脈の流れが止まったり濁ったりしている可能性があり、結界の封印自体が年々弱まっているということすらあります。

高いタワーや塔というものは、戦争や争いを喚起する建造物と符号するのではないか、と思わせるような話題ではあります。
これらを都市伝説としてとらえるか否かはあなた次第ですが、内容や文面だけで妄信するのではなく、自らの意志で理解、判断する力も持つべき時代に来ているように感じます。

そういった意味でも、自身の精神性が試される時期なのかもしれません。