上巻の怠惰な生活、中巻の恋愛、下巻の終焉という構成でしたが、
農奴制の地主階級では足を組むことがマナー違反でると書かれていて、
あれ、アメリカの歴代大統領は皆氏を組んでいるよなーとか、
プレツェルが出てきて実は当時はドイツ人が多かったと納得したり。
発表された当時と現在では社会状況が大きく違い、
この作品に対する解釈も評価も違うと思います。
しかし今も読み継がれるということはそこに普遍性があるからであり、
実は世の中の本質も変わっていないのことに驚愕するのです。
オブローモフシチナという言葉で片づけることのできない、とても深い良い作品でした。

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
オブローモフ 上 (岩波文庫 赤 606-2) 文庫 – 1976/2/16
- 本の長さ312ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日1976/2/16
- ISBN-104003260627
- ISBN-13978-4003260623
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (1976/2/16)
- 発売日 : 1976/2/16
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 312ページ
- ISBN-10 : 4003260627
- ISBN-13 : 978-4003260623
- Amazon 売れ筋ランキング: - 617,627位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 440位ロシア・ソビエト文学 (本)
- - 1,151位ロシア・東欧文学研究
- - 3,562位岩波文庫
- カスタマーレビュー:
カスタマーレビュー
星5つ中5つ
5つのうち5つ
6グローバルレーティング
評価はどのように計算されますか?
全体的な星の評価と星ごとの割合の内訳を計算するために、単純な平均は使用されません。その代わり、レビューの日時がどれだけ新しいかや、レビューアーがAmazonで商品を購入したかどうかなどが考慮されます。また、レビューを分析して信頼性が検証されます。
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2020年3月14日に日本でレビュー済み
ロシア的な人格、「余計者」「怠け者」という「公式」だけで読んでしまうと、現代の日本でこれをよんでいることの意味を失ってしまうように私には思えます。
そうではなく、オブローモフを「余計者」として扱う現代の視点の正当性に疑問をもってみる。私には、ここに描かれているのは、ある時代、ある特殊な生き方、性向ではなく、歴史が排斥してきた、それでもつねに私たちの後ろ、足下にあるもっと普遍的な人生への視点、深淵だという気がするのです。たとえば、最近なら村田沙耶香の『コンビニ人間』で極めて現代的な問いとして提出されたような。
つまり、私たちは無自覚のうちにシュトルツの生き方、見方、考え方を選んでいるじゃないか、別の選択肢は「余計者」かのようにと。正確には、彼とおなじ種類の恐れ、恐怖を共有し、同じ処方箋を選んだのではないかと。シュトルツ化された現代世界が覆い隠した気でいる、脱(反ではなく)「人生」、脱「社会」、脱「生活」、脱「芸術」、脱「生産」、脱「時間」の世界が安易な賞賛でもなければ否定でもなく描かれていることを通してそう感じるのです。そういう世界は、ドストエフスキーなんかを論じるより遙かに厄介で危険なものだし、そのため文学史から忘れ去るべく処遇されてきた、結果、品切れになっているのかなと。
実にロシア的だとおもえるのは、こういう問題に対して考え得たことすべてを余すことな作品にまとめるという姿勢であり、四部構成の劈頭をかざるこの巻では、時代に特徴的な人物のスケッチに終始するのですが、その動きのすくなさにも退屈することはありません。ここでのスケッチは後に回収されてもいくのです。まったく意想外に、それでいて、書くべきことは全部書く、読み物としての楽しさを約束するが、その展開に絵空事をもってこない、つまり、人生へ誠実な姿勢、文学への信頼を味わうことができるでしょう。
そうではなく、オブローモフを「余計者」として扱う現代の視点の正当性に疑問をもってみる。私には、ここに描かれているのは、ある時代、ある特殊な生き方、性向ではなく、歴史が排斥してきた、それでもつねに私たちの後ろ、足下にあるもっと普遍的な人生への視点、深淵だという気がするのです。たとえば、最近なら村田沙耶香の『コンビニ人間』で極めて現代的な問いとして提出されたような。
つまり、私たちは無自覚のうちにシュトルツの生き方、見方、考え方を選んでいるじゃないか、別の選択肢は「余計者」かのようにと。正確には、彼とおなじ種類の恐れ、恐怖を共有し、同じ処方箋を選んだのではないかと。シュトルツ化された現代世界が覆い隠した気でいる、脱(反ではなく)「人生」、脱「社会」、脱「生活」、脱「芸術」、脱「生産」、脱「時間」の世界が安易な賞賛でもなければ否定でもなく描かれていることを通してそう感じるのです。そういう世界は、ドストエフスキーなんかを論じるより遙かに厄介で危険なものだし、そのため文学史から忘れ去るべく処遇されてきた、結果、品切れになっているのかなと。
実にロシア的だとおもえるのは、こういう問題に対して考え得たことすべてを余すことな作品にまとめるという姿勢であり、四部構成の劈頭をかざるこの巻では、時代に特徴的な人物のスケッチに終始するのですが、その動きのすくなさにも退屈することはありません。ここでのスケッチは後に回収されてもいくのです。まったく意想外に、それでいて、書くべきことは全部書く、読み物としての楽しさを約束するが、その展開に絵空事をもってこない、つまり、人生へ誠実な姿勢、文学への信頼を味わうことができるでしょう。
2017年10月30日に日本でレビュー済み
学校で紹介され、今回ゴンチャロフの小説を初めて読みました!下巻の最後まで読んだのですが、満足のいく作品でした。とくに上巻では、怠惰な毎日を過ごすオブローモフが立ち上がるまでの描写で描かれています。しかし最初、この上巻を読むのが辛かったです…(笑)というのも物語が全然進まないんです。しかし、下巻の最後まで読んでみると、上巻が一番面白かったなあという印象を受けました!この小説を機にゴンチャロフの他の小説にも興味が湧きました!
2015年6月29日に日本でレビュー済み
有閑貴族のアンニュイ、みたいな批判をされ続けたようですが、ちょい待てよ、と。
リア充でないこと、うらぶれた街中にいる子連れ未亡人と結婚することがそんなに悪い事?→少なくとも見てくれ以外にはそれ程悪く作者も書いてません。
「無駄に心が清い憎めない引きこもり」という感じです。漱石の小説のように同じ「なんだこいつは」でも何となく心が暖かくなるような本です。
ゴンチャロフは彼の生き様をただ批判して笑おうとだけしていたのでしょうか?
引きこもり全盛のこの時代、改めて読んでいただきまいものです。
にしても、オブローモフ。余りに働かな過ぎでしょ
どんなに擁護してもそれを上回る駄目っぷりです。
リア充でないこと、うらぶれた街中にいる子連れ未亡人と結婚することがそんなに悪い事?→少なくとも見てくれ以外にはそれ程悪く作者も書いてません。
「無駄に心が清い憎めない引きこもり」という感じです。漱石の小説のように同じ「なんだこいつは」でも何となく心が暖かくなるような本です。
ゴンチャロフは彼の生き様をただ批判して笑おうとだけしていたのでしょうか?
引きこもり全盛のこの時代、改めて読んでいただきまいものです。
にしても、オブローモフ。余りに働かな過ぎでしょ
どんなに擁護してもそれを上回る駄目っぷりです。
2008年6月18日に日本でレビュー済み
『オブローモフ』こそ『白痴』のムイシュキンへとつながってゆく<無用の人>の先達である。その極北の人が『代書屋バートルビー』のバートルビーその人である。
尤もオブローモフは、当然にもロシアの農奴制のうえにのほほんとしている有閑貴族層に属する(ムイシュキンも)。この緩さ! この気楽さ! そのうえ罪深いこと!(繰り返すが、現実としてはムイシュキンも同様である。だから彼を「無条件に美しい人」ということには異論がある。ムイシュキン自身が農奴解放以降の人であっても、貴族である以上、その制度のうえに生きているのである。彼自身に直接的な責任はないにしても)。
本書は退屈であることが名作という珍しい例であって、読むほうもダラダラと読みたい。
ラスコーリニコフ登場に先立つこと7年、ムイシュキンに先立つこと10年、このヘンテコな主人公は「ロシア的」なるものの一典型として登場し、決して忘れられない存在感を持つ。
なお、本書訳者の米川正夫は、ロシア文学翻訳の真の巨匠の一人だ。かつて山本夏彦は米川を「日本語の破壊者」として実名を挙げて批判したが、わかっていないなあ。うねる訳語、その文体はまさにドストエフスキーである。河出版全集の偉大なる訳業は不滅のものであり、亀山新訳の『カラマーゾフ』に拍手を惜しまないことと決して矛盾するものではない。
亀山訳でドストエフスキーに嵌った人は、古本屋で河出版全集を購入することをオススメしたい。決して読みにくくはない。
おそらくドストエフスキーのキャラクターたちが、乗り移ってくるような迫力は米川訳にこそあると思うがいかがだろうか。
尤もオブローモフは、当然にもロシアの農奴制のうえにのほほんとしている有閑貴族層に属する(ムイシュキンも)。この緩さ! この気楽さ! そのうえ罪深いこと!(繰り返すが、現実としてはムイシュキンも同様である。だから彼を「無条件に美しい人」ということには異論がある。ムイシュキン自身が農奴解放以降の人であっても、貴族である以上、その制度のうえに生きているのである。彼自身に直接的な責任はないにしても)。
本書は退屈であることが名作という珍しい例であって、読むほうもダラダラと読みたい。
ラスコーリニコフ登場に先立つこと7年、ムイシュキンに先立つこと10年、このヘンテコな主人公は「ロシア的」なるものの一典型として登場し、決して忘れられない存在感を持つ。
なお、本書訳者の米川正夫は、ロシア文学翻訳の真の巨匠の一人だ。かつて山本夏彦は米川を「日本語の破壊者」として実名を挙げて批判したが、わかっていないなあ。うねる訳語、その文体はまさにドストエフスキーである。河出版全集の偉大なる訳業は不滅のものであり、亀山新訳の『カラマーゾフ』に拍手を惜しまないことと決して矛盾するものではない。
亀山訳でドストエフスキーに嵌った人は、古本屋で河出版全集を購入することをオススメしたい。決して読みにくくはない。
おそらくドストエフスキーのキャラクターたちが、乗り移ってくるような迫力は米川訳にこそあると思うがいかがだろうか。
2022年5月27日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
人間の性善説を説いているが、人間がもともと善であるとするなら、元々は悪であるとも言える。『アウシユビッツの地獄に生きて』(ジュディス・s・ニューマン著書/千頭宜子訳)を一気読みした直後の読書であったので、多少ひねくれた読み方になってしまった。