映画冒頭、(屍体とおぼしき)女性の顔から、ゆっくりと回転しながらカメラがズームバックしてゆく。女性のメイクと背景の草の緑と血の紅さが不思議な視覚効果を生み、前衛演劇のワンシーンを観ているような錯覚を覚える。しかし、冷静に見ればそれはただの全裸屍体でしかないのだ。
幻惑的な音響効果と共に、殺害された人々の屍体が次々と画面に映し出される。その佇まいは、きまぐれな芸術家によって発作的にぶちまけられた、即興アートのようだ。
映画の冒頭30分は、殺人者による犯行の瞬間は描かれない。店の中で、家の中で、トイレの中で、誰に視られる訳でもなく展示されたかのような「死の作品」が、淡々と映し出されてゆく。
本作は、アメリカで300人以上を殺したと云われる、ヘンリー・リー・ルーカスをモデルにした、実録風のサイコ・ム−ビーである。冒頭に出てくる4つの犯行現場は、実際の現場写真を元にしたものだという。そうした事からも、本作はヘンリーの実話の映画化と受け止められることが多いが、基本的にはヘンリーの物語をベースにして創作された「実和風」のフィクション・・・ヘンリーと云う名の殺人鬼の都市伝説を描いた映画、と言った方がいいだろう。
300人以上という数字は尋常ではなく、個人による殺人という点に於いては、一般に知られているものとしては史上最多であることに間違いなく、また、彼の犯行は全米30余州にまたがっているという行動範囲の広さも出色である。一方で、こうした数字の信憑性がどこまであるのかも不明である。というのは、ヘンリー・リー・ルーカスは虚言癖の持ち主としても知られていて、逮捕後の供述内容がコロコロ変わり、当初は175人、次に360人、さらには500人以上にまでエスカレートしたと思ったら、突然「一人も殺していない」と言い出す事もあったという。実は数人しか殺していないのでは、という説もあり、殺人鬼ヘンリーの犯行の実態は、永遠に闇の中、なのだ。
本作が制作された経緯などは、本ソフトに収録されているメイキングに詳しいのだが、レンタル版は特典映像がついていないので、以下に記す。
本作の監督ジョン・マクノートンは、映画制作者のワリード・B・アリと共に’80年代前半ごろ、著作権フリーのフィルムを使って制作したギャングのドキュメンタリー映画がヒットしたため、同じような手法でまたドキュメンタリーを制作しようと企画する。が、諸々の都合で企画は頓挫する。そして、アリは突然、マクノートンにホラー映画の制作を打診したという。マクノートンは、仕事仲間に見せられたヘンリー・リー・ルーカスのドキュメンタリー番組にインスピレーションを受け、リチャード・ファイアと脚本を完成させ、アリの元に持ち込む。アリは、その脚本を読みもせずにOKを出し、’86年、インディペンデントとして制作される。監督ジョン・マクノートンと、ヘンリーを演じた主演のマイケル・ルーカー両者の劇映画デビュー作となった。しかし、制作内容には全くノータッチだったアリが、完成した映画を観て上映及びソフト化をためらったため、公開されるまでに3年の時間を要した。
一般的には、「ホラー映画を求められたが、アート映画が出来上がってきたため、怒ったプロデューサーによってオクラにされた」と言われているが、本当の理由はよく判らないようだ。
ただ言える事は、本作は、サイコサスペンスブームの火付け役となった『羊たちの沈黙』(‘90)や『ツイン・ピークス』(‘90〜’91)よりも何年も先に作られていて、その先鋭的なセンスを受け入れる土壌がまだなかったからなのではないか、と思われる。
本作が他のサイコ・ムービーと趣を異にするのは、主人公である殺人鬼ヘンリーの描き方と、演じたマイケル・ルーカーの演技力の非凡さに負うところが大きい。映画の中のヘンリーは、他のサイコパスキャラクターのような、判り易い異様性で描かれていない。例えば、殺人衝動のような歪んだオブセッションや、死へのフェティシズムや殺人美学のようなものを持ち合わせている人間ではない。社会に対して心を閉ざしているような部分がありながらも、一見すると普通の男である。妹に暴行を加えようとする兄を止めに入るようなモラルさえ持っている。そして殺人は突如、衝動的に行われる。まるでその瞬間が訪れるまでは本人にも判らないかのように。そして殺し方にも法則性はない。ある時は銃で撃ち、あるときは首をひねり、ある時はメッタ刺しにして・・・。
そうした、行動が予測不可能で型に嵌めることができないところがヘンリーの怖さなのである。そしてこの役を淡々と、狂気を内に秘めて演じ切ったマイケル・ルーカーの存在感は圧巻という他ない。
この映画はよく、アート映画として論じられる事がある。しかしそれはヨーロッパ映画のような洗練されたアート性とは異なる。冒頭30分、ヘンリーの犯行を見せずに、ただ屍体のみを映していく(そのバックにノイズと叫び声の不協和音が重なる)斬新な演出タッチから一転、後半はビデオカメラで撮影された犯行の生々しい様子・・・特に一家惨殺シーンは酸鼻を極める描写・・・こうした様々な手法で殺人を描いていく実験性と、一方で低予算映画独特のざらついた画面、少ない照明機材で撮影された薄暗いキッチンや侘しげな夜景、手持ちカメラで移動していく街中の風景・・・ドライブイン・シアターで上映されるC級映画のような垢抜けない匂いも併せ持っていて、アートと俗の間をたえず揺らぎながら浮遊するうす汚れた映像が、実に・・・居心地が悪いぐらいに心地よい。
実在のヘンリーと主演のルーカーはあまり顔が似ていなくて、むしろ相棒のオーティスを演じたトム・トウルズの方が実際のヘンリーに似ているという奇妙なキャスティングや、オーティスはヘンリーよりも10歳年下なのに、この映画ではむしろ年上に見えること、またネタバレになってしまうが、本作のクライマックスでは、ヘンリーとオーティスが仲違いして、オーティスが殺されてしまうという展開があるが、それは事実とは違っていて、二人とも獄中で亡くなっているという点も含め、これはヘンリー・リー・ルーカスの実録映画ではなく、彼をモデルにした「もう一人のヘンリー」の都市伝説なのだ。エンドクレジットの役名が名前のみ(あえて苗字を表記していない)ことからも、実在の人物の再現映画ではないことが伺える。
とはいえ、ヘンリーを演じたマイケル・ルーカーの迫真の演技は本当に素晴らしく、さっきとは違う事をさらりとしゃべる虚言癖や、予測不可能な行動・・・特にラストシーンの居心地の悪さは格別だ。
ルーカーは完全に役に入り込んでしまって、撮影中はスタッフですら、今の彼が本人なのかヘンリーなのか見分けがつかなかったそうだ。ルーカーの妻は、当時妊娠していたのだが、そんな夫が怖くて、映画の撮影が終わるまで妊娠の事を黙っていたというエピソードまで残されている。
その犯行の全容が謎のまま、獄中で逝ってしまったヘンリーという殺人鬼の、得体の知れない心の闇をフィルムに収め、街の暗がりの中をいまだに彷徨い続けているかのような、異形の映画である。