大江健三郎のノーベル賞の受賞理由の記された文書に代表作として挙げられているのが本書「万延元年のフットボール」(1967)であり、そのノーベル賞の受賞の記念講演が「あいまいな日本の私」(1994)であるが、もちろん両者は繋がっている。 「あいまいな日本の私」で述べられているのは、日本という国は、万延元年のころ開国を迫られて以来、日本と西欧の両極にアンビギュアスに引き裂かれ、そのことによって条件付けられた歴史を辿り、それ故の傷を(これは勿論日本に侵略されたアジアの国も)負った、ということだが、日本という国の抱え込むアンビギュイティが「万延元年」に縦横に張り巡らされるよう書かれている。 /小説の背景の安保闘争というのがアンビギュアスなものであった。日本の中で激しい意見対立があり、両陣営に分かれて争ったことがそもそも両義性なわけだが、両陣営ともそれぞれ両義性を抱えていた。左翼の安保反対には反米という愛国的情念は拭難くあったであろうし、vice versaで右翼も戦勝国アメリカに屈服する怨恨を抱え込んだ。この両義的なものが複雑にからみあったコンプレックスはいまの日本においても解消されず残っているだろう。/ 主人公たちが帰郷する村には、西欧化の帰結である経済の進展によってスーパー・マーケットが進出している。これには一方において消費経済の魅惑であるが、一方で社会の均質化・地縁共同体の解体という傷をもたらす。グローバライゼーションの問題を大江は既に1960年代に作品に書き込んでいる。/作中、スーパー・マーケットの経営者が在日コリアンであるのも事態を複雑化している。当初は西欧化に抵抗したものの路線転換し「脱亜入欧」し、後進的なものと蔑視していた隣人が、経済的に優位にたっている。そこからもたらされる鬱屈した情念は暴動に発展するわけだが、こういう事態も非常に今日的である。この蔑視の対象が作中「天皇」と呼ばれるのもアイロニカルで含むところは大きいだろう。/こうやってつらつらと書いてきて、作家はいまなおリアルな問題、というよりもむしろ執筆当時以上に、グローバライゼーションの進展、社会的無意識=汚いホンネがダダ漏れに露呈する技術条件であるインターネットの普及、により1990年代後半ごろからよりクッキリと見えてきた問題群を1960年代において完全に視界に入れているのに驚かされる。経済不安の鬱屈のはけ口のヘイトデモやネット書き込み、被害者意識と蔑視感情のコンプレックスの歴史修正主義、そうしたネットウヨク的問題の構造はノーベル賞級の巨人的な作家からすれば「「想像力」的には大昔にとっくに全部見通し済みだぜ」ということなのである。図星を突かれた彼らがネットで血相変えて大江叩きにはしるのも気持ちはわからなくはない。
・・・と、こういう紹介をすると、最近の若い人の政治忌避の流れから「そういう重たい話はちょっと・・・」となってもよくないので付言すると、本書はまことに多面的な世界であり、上記は多面のなかの一面から本書の洞察の深さを語ってみただけであって、ノーベル賞が”fundamentally the novel deals with people’s relationships with each other in a confusing world in which knowledge, passions, dreams, ambitions and attitudes merge into each other.(基本的には、この小説は、知識、情熱、夢、野望、態度が溶け合った混乱した世界における人々の関係を取り扱っている)”と世界に向けて紹介している通り、本作はある国の特殊事情を語っているだけではない誰でも共感できる普遍的な物語である。主人公夫婦には知的に障害を持った子供が生まれ、その失意から関係が崩壊している。彼ら崩壊家族の恢復の物語がこの多面的世界を貫く基軸である。
自分がレビュアーとして多くの人に本書を手に取って欲しい理由として、本書の魅力として第一に挙げたいのは、本書の破格の文体である。大江の文章は、彼を否定した向きから鬼の首をとったように「悪文だ」などと言われるわけだが「美しい日本の私の美しい日本語」などというのはジョイスやらフォークナーやらを経た後の20世紀の世界文学の課題では全くないのであって、全く批判が届いていない。退屈な美しさなど破砕しながら、イメージの奔流が怒濤のように押し寄せてトグロを巻く本書を母語で読めるということは令和元年、「美しい国へ」とかいうスローガンがいよいよお笑いになってきた、洒落にならないこの国に生きていて得られるすくない僥倖の一つといえるであろう。是非、本屋で手にとって(kindleでもお試しの無料サンプルをダウンロードして)第一章の「死者にみちびかれて」を5、6ページ読んでみて欲しい。
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万延元年のフットボール (講談社文芸文庫) Kindle版
友人の死に導かれ夜明けの穴にうずくまる僕。地獄を所有し、安保闘争で傷ついた鷹四。障害児を出産した菜採子。苦渋に満ちた登場人物たちが、四国の谷間の村をさして軽快に出発した。万延元年の村の一揆をなぞるように、神話の森に暴動が起る。幕末から現代につなぐ民衆の心をみごとに形象化し、戦後世代の切実な体験と希求を結実させた画期的長篇。谷崎賞受賞。
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日1988/4/10
- ファイルサイズ688 KB
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登録情報
- ASIN : B00GY19N66
- 出版社 : 講談社 (1988/4/10)
- 発売日 : 1988/4/10
- 言語 : 日本語
- ファイルサイズ : 688 KB
- Text-to-Speech(テキスト読み上げ機能) : 有効
- X-Ray : 有効
- Word Wise : 有効にされていません
- 付箋メモ : Kindle Scribeで
- 本の長さ : 409ページ
- Amazon 売れ筋ランキング: - 28,518位Kindleストア (Kindleストアの売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1935年愛媛県生まれ。東京大学仏文科卒。大学在学中の58年、「飼育」で芥川賞受賞。以降、現在まで常に現代文学をリードし続け、『万延元年のフット ボール』(谷崎潤一郎賞)、『洪水はわが魂に及び』(野間文芸賞)、『「雨の木」を聴く女たち』(読売文学賞)、『新しい人よ眼ざめよ』(大佛次郎賞)な ど数多くの賞を受賞、94年にノーベル文学賞を受賞(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 「伝える言葉」プラス (ISBN-13: 978-4022616708 )』が刊行された当時に掲載されていたものです)
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2020年2月15日に日本でレビュー済み
レポート
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63人のお客様がこれが役に立ったと考えています
役に立った
2020年10月24日に日本でレビュー済み
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絶望にいた時に俺がしたこと
俺が抱える以上の絶望を探すこと
それによって自分を慰めること
大抵の言葉や音楽、小説は役に立たなかった
けど大江健三郎の小説は良かった
俺がどん底にいた時に読んだ彼の小説「万延元年のフットボール」は
光の決して届かないような場所に沈殿していた俺の心に、気づけば横に、あるいはそれより深い深度を持って
そこに存在していた。こういう出会いが俺を救う。俺も誰かの少しでも救いに、なぐさめになれたら、と思う。
俺が抱える以上の絶望を探すこと
それによって自分を慰めること
大抵の言葉や音楽、小説は役に立たなかった
けど大江健三郎の小説は良かった
俺がどん底にいた時に読んだ彼の小説「万延元年のフットボール」は
光の決して届かないような場所に沈殿していた俺の心に、気づけば横に、あるいはそれより深い深度を持って
そこに存在していた。こういう出会いが俺を救う。俺も誰かの少しでも救いに、なぐさめになれたら、と思う。
2020年9月14日に日本でレビュー済み
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終盤の超展開はともかく、一度通して読んだうえで、改めて一章の内容と感想を記します。
【内容】
学生運動に巻き込まれて頭部を殴打した親友の狂気じみた縊死、障害を持って生まれた赤子、アルコール依存症の妻と共に家畜さながらの荒んだ日々を送る語り手蜜、そして裏側では学生運動家として思想に傾倒した蜜の弟、鷹のアメリカでの頽廃的な日々の断片が、終盤で語られる「本当のこと(鷹の抑圧ともいえよう)」の上部構造として綴られるイントロダクションである。
死んだ母親による蜜に劣等感を植え付ける一方的な予言、鷹の抑圧の上部構造、最も常識的な感性を持ち合わせまま、それゆえに家族のことで苦悩する妻の頽廃、縊死した蜜の分身たる友人の表象が一挙に描写され、直線的な時間軸と共に語られる二章以降の駆動として濃密に凝縮されている印象をうける。
【感想】
全裸で肛門に胡瓜をさし、頭部を赤く染め縊死した現実離れした親友像は蜜にとってとてもリアルに切迫した問題で、周囲との関係が孤絶され緩やかな死へと至りつつある蜜の内面に、まさに表象としての綜合的な死(吉本『共同幻想』遠野物語)をもたらしており、のちの章で、蜜の自閉的傾向が強まったときたびたびしつこいぐらいに現出してくる。
一方で、社会規範から大きく逸脱した親友の相貌が、小説的な文脈において表象としてしつこく反復されるとき、村上春樹の『1Q84』の冒頭で克明に繰り返し描き出される主人公の記憶<自分の母親と思われる女の乳房を吸う見知らぬ男の像>と同様に、かえってユーモアとしての特性を帯び始めつつあるかもしれない。
精神医学ではトラウマ足りえるイメージが、物語として繰り返し語られることによって、半ば皮相的にユーモアとして結晶化しているとするのはインターネットに毒された私だけの妄想か?
友人の死に立ち会ったときの生々しい腐敗した亡骸にまつわる記憶が、着実にいまなお死にゆく蜜(あるいはまったく反対に社会から離反しすっかり動物的な変貌を遂げ、もはや最も切実に本能的な生を希求した存在ともいえる蜜、それはまるで胚種に猥雑に手足が生えたような自由な個体のようである)に奇妙な親近感をもたらしており、浄化槽のなかで闇と解けあう逸脱した身体的表現は注目に値する。
さて、物語の大きな仕掛けとして明るみになる、悔悛した学生運動家としての役割に透徹する鷹の破滅的な行動の裏にある抑圧が一体何なのだろうか? と読者に思わせることには成功しただろうか?(私は、あくまで読書に不慣れな私はなのだが、あまりにも濃密にすぎるゆえにただ強い抵抗感をもって一章を読まざるを得なかった。)
また鷹だけでなく、蜜に囁かれた母親の予言、「お前は鷹とは正反対にいずれ醜くなるだろう」、が着実に蜜の心象に明瞭な歪みをもたらせていることを、あたかも構造外部の語り手としての蜜自体から読者が超越して感じ取ってやらなくてはならないのだろう。
【内容】
学生運動に巻き込まれて頭部を殴打した親友の狂気じみた縊死、障害を持って生まれた赤子、アルコール依存症の妻と共に家畜さながらの荒んだ日々を送る語り手蜜、そして裏側では学生運動家として思想に傾倒した蜜の弟、鷹のアメリカでの頽廃的な日々の断片が、終盤で語られる「本当のこと(鷹の抑圧ともいえよう)」の上部構造として綴られるイントロダクションである。
死んだ母親による蜜に劣等感を植え付ける一方的な予言、鷹の抑圧の上部構造、最も常識的な感性を持ち合わせまま、それゆえに家族のことで苦悩する妻の頽廃、縊死した蜜の分身たる友人の表象が一挙に描写され、直線的な時間軸と共に語られる二章以降の駆動として濃密に凝縮されている印象をうける。
【感想】
全裸で肛門に胡瓜をさし、頭部を赤く染め縊死した現実離れした親友像は蜜にとってとてもリアルに切迫した問題で、周囲との関係が孤絶され緩やかな死へと至りつつある蜜の内面に、まさに表象としての綜合的な死(吉本『共同幻想』遠野物語)をもたらしており、のちの章で、蜜の自閉的傾向が強まったときたびたびしつこいぐらいに現出してくる。
一方で、社会規範から大きく逸脱した親友の相貌が、小説的な文脈において表象としてしつこく反復されるとき、村上春樹の『1Q84』の冒頭で克明に繰り返し描き出される主人公の記憶<自分の母親と思われる女の乳房を吸う見知らぬ男の像>と同様に、かえってユーモアとしての特性を帯び始めつつあるかもしれない。
精神医学ではトラウマ足りえるイメージが、物語として繰り返し語られることによって、半ば皮相的にユーモアとして結晶化しているとするのはインターネットに毒された私だけの妄想か?
友人の死に立ち会ったときの生々しい腐敗した亡骸にまつわる記憶が、着実にいまなお死にゆく蜜(あるいはまったく反対に社会から離反しすっかり動物的な変貌を遂げ、もはや最も切実に本能的な生を希求した存在ともいえる蜜、それはまるで胚種に猥雑に手足が生えたような自由な個体のようである)に奇妙な親近感をもたらしており、浄化槽のなかで闇と解けあう逸脱した身体的表現は注目に値する。
さて、物語の大きな仕掛けとして明るみになる、悔悛した学生運動家としての役割に透徹する鷹の破滅的な行動の裏にある抑圧が一体何なのだろうか? と読者に思わせることには成功しただろうか?(私は、あくまで読書に不慣れな私はなのだが、あまりにも濃密にすぎるゆえにただ強い抵抗感をもって一章を読まざるを得なかった。)
また鷹だけでなく、蜜に囁かれた母親の予言、「お前は鷹とは正反対にいずれ醜くなるだろう」、が着実に蜜の心象に明瞭な歪みをもたらせていることを、あたかも構造外部の語り手としての蜜自体から読者が超越して感じ取ってやらなくてはならないのだろう。
2023年12月17日に日本でレビュー済み
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昔、親の本棚にあった文庫本。父が読んだのか、母が読んだのか。大江健三郎のノーベル賞受賞のもっと前の話。
フットボールとあるから、もっと軽い内容かと思ったら、とんでもない。ご本人も、見た感じでは気の良い人物という印象だったが、このような難解な書物だったとは。一度読んだだけでは、理解できない。これは映像化は難しいだろうな。
フットボールとあるから、もっと軽い内容かと思ったら、とんでもない。ご本人も、見た感じでは気の良い人物という印象だったが、このような難解な書物だったとは。一度読んだだけでは、理解できない。これは映像化は難しいだろうな。
2021年1月30日に日本でレビュー済み
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説明どおりの商品で発送も迅速でとてもていねいでした。機会あればまたお願いしたいです。ありがとうございました。
2018年1月4日に日本でレビュー済み
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『万延元年のフットボール』は愛する勇気を問うた、希望に満ち溢れた純愛への序章だと感じました。
そして、愛し続けるということは、覚悟が必要なんだということも学びました。
大江さんは日本人には珍しく、「個」をとても尊重する人なんじゃないでしょうか。
愛するか愛さないか、愛し続けるか愛するのを止めるかの決定権は、常に自分にあるんですね。
そして、愛し続けるということは、覚悟が必要なんだということも学びました。
大江さんは日本人には珍しく、「個」をとても尊重する人なんじゃないでしょうか。
愛するか愛さないか、愛し続けるか愛するのを止めるかの決定権は、常に自分にあるんですね。
2023年4月1日に日本でレビュー済み
今年(2023年)になって、加賀乙彦氏、大江健三郎氏という私が長く敬愛してきた作家が相次いで亡くなった。とりわけ大江氏の作品は高校時代に耽読し、その後の私の人生の進路に深く影響を受けただけに感慨が大きい。その大江氏との出会いの作品がこの『万延元年のフットボール』にほかならない。
当時は講談社文庫版で書店に平積みになっており、真っ赤に塗られた顔が大きく描かれたグロテスクなカバーに興味を惹かれて買って読んだことを覚えている。
まず、冒頭から異様なイメージに圧倒される。夜明け前の暗闇で「失われた熱い期待の感覚」を探し求める主人公根所蜜三郎(「僕」の一人称で語られる)は浄化槽埋め込みのための庭の穴に降り犬を抱いて考え込む。主人公の友人は朱色の塗料で頭を塗って素裸で肛門に胡瓜をさしこんで縊死し、子どもは重度の障害で養護施設に入れられ、妻はアルコール依存に陥っているのだが、これらのイメージは繰り返し喚起され、小説全体の基調となっている。こうした冒頭の状況提示が、翻訳口調も交えた息の長い、ゴツゴツした文体(悪文ではない)で語られていく。難解でとっつきにくいが、読み進むうちに主人公の限りなく下降していく意識感覚に引き込まれるように小説世界に入っていく。
物語は、60年安保闘争に挫折した「悔悛した学生運動家」として登場する弟鷹四、その心酔者であるハイティーンの「星男」と「桃子」の登場を経て、郷里の四国山中にある窪地の村に舞台を転じるが、そこでも過食症の大女「ジン」(スターウォーズのジャバ・ザ・ハットを連想する)、戦時中に村で強制労働させられていた在日朝鮮人の成功者「スーパーマーケットの天皇」、元は徴兵忌避者の「隠遁者ギー」といった異色のキャラクターを配して、大江ワールドが形成されていく。
鷹四は万延元年の一揆の主導者であった主人公らの曾祖父の弟に倣い、村の青年らを組織して、雪で閉じ込められ交通と通信の途絶えた状況下でスーパーマーケット襲撃の暴動まで起こすのだが、主人公は「社会に受け入れられている人間」と嘲られつつ距離を置き、異邦人として疎外感を深めていく。
暴動の顛末には触れないが、運動が自己目的化しその有効性を考えない点で、あたかも新左翼運動(後の全共闘)に対するカリカチュアのように見える。しかし、万延元年の一揆の真相解明と合わせつつ、最終的に大江はその失敗を描くだけでなく、成果も肯定しているようだ。
冒頭で提示された主題である主人公の「熱い期待」の喪失感と、物語の進行につれて深まる主人公と弟や妻との対立、葛藤は暴動の前後で頂点に達するが、鷹四の自死の悲劇を経た大団円で対立は和解へと向かい、「期待」は回復の兆し示して小説は閉じられる。いわば魂の死と再生の物語である。
大江自身がこの文芸文庫版のあとがきで書いているように、「青春のしめくくり」と「乗り越え点」に位置する著作といえる。
当時は講談社文庫版で書店に平積みになっており、真っ赤に塗られた顔が大きく描かれたグロテスクなカバーに興味を惹かれて買って読んだことを覚えている。
まず、冒頭から異様なイメージに圧倒される。夜明け前の暗闇で「失われた熱い期待の感覚」を探し求める主人公根所蜜三郎(「僕」の一人称で語られる)は浄化槽埋め込みのための庭の穴に降り犬を抱いて考え込む。主人公の友人は朱色の塗料で頭を塗って素裸で肛門に胡瓜をさしこんで縊死し、子どもは重度の障害で養護施設に入れられ、妻はアルコール依存に陥っているのだが、これらのイメージは繰り返し喚起され、小説全体の基調となっている。こうした冒頭の状況提示が、翻訳口調も交えた息の長い、ゴツゴツした文体(悪文ではない)で語られていく。難解でとっつきにくいが、読み進むうちに主人公の限りなく下降していく意識感覚に引き込まれるように小説世界に入っていく。
物語は、60年安保闘争に挫折した「悔悛した学生運動家」として登場する弟鷹四、その心酔者であるハイティーンの「星男」と「桃子」の登場を経て、郷里の四国山中にある窪地の村に舞台を転じるが、そこでも過食症の大女「ジン」(スターウォーズのジャバ・ザ・ハットを連想する)、戦時中に村で強制労働させられていた在日朝鮮人の成功者「スーパーマーケットの天皇」、元は徴兵忌避者の「隠遁者ギー」といった異色のキャラクターを配して、大江ワールドが形成されていく。
鷹四は万延元年の一揆の主導者であった主人公らの曾祖父の弟に倣い、村の青年らを組織して、雪で閉じ込められ交通と通信の途絶えた状況下でスーパーマーケット襲撃の暴動まで起こすのだが、主人公は「社会に受け入れられている人間」と嘲られつつ距離を置き、異邦人として疎外感を深めていく。
暴動の顛末には触れないが、運動が自己目的化しその有効性を考えない点で、あたかも新左翼運動(後の全共闘)に対するカリカチュアのように見える。しかし、万延元年の一揆の真相解明と合わせつつ、最終的に大江はその失敗を描くだけでなく、成果も肯定しているようだ。
冒頭で提示された主題である主人公の「熱い期待」の喪失感と、物語の進行につれて深まる主人公と弟や妻との対立、葛藤は暴動の前後で頂点に達するが、鷹四の自死の悲劇を経た大団円で対立は和解へと向かい、「期待」は回復の兆し示して小説は閉じられる。いわば魂の死と再生の物語である。
大江自身がこの文芸文庫版のあとがきで書いているように、「青春のしめくくり」と「乗り越え点」に位置する著作といえる。