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世界の共同主観的存在構造 (講談社学術文庫) 文庫 – 1991/11/5
廣松 渉
(著)
廣松渉は、思想としての近代とはなにか、近代を超克するとはどのようなことがらであるのか、を哲学的に問いつめる。その若き日の主要論文をおさめたこの書は、「大きな物語」の終焉がささやかれる現在においてなお、新鮮なかがやきと衝撃力をうしなっていない。否、思想的指針の一切を喪失したかに見える今日にあってこそ、それらの論考の課題意識が十分にふまえられてなければならないとおもわれる。
- 本の長さ426ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日1991/11/5
- ISBN-104061589989
- ISBN-13978-4061589988
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商品の説明
著者について
1933年福岡県生まれ。東京大学大学院博士課程(哲学)修了。東京大学教養学部教授。主な著書に、『資本論の哲学』『唯物史観の原像』『科学の危機と認識論』『事的世界観への前哨』『存在と意味』『物象化論の構図』『新哲学入門』『哲学入門一歩前』(講談社現代新書)。講談社学術文庫に、『唯物史観と国家論』(山本耕一氏と共著)『〈近代の超克〉論』『マルクス主義の地平』『生態史観と唯物史観』がある。1994年没。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (1991/11/5)
- 発売日 : 1991/11/5
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 426ページ
- ISBN-10 : 4061589989
- ISBN-13 : 978-4061589988
- Amazon 売れ筋ランキング: - 438,881位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 600位認識論 (本)
- - 997位哲学・思想の論文・評論・講演集
- - 1,327位講談社学術文庫
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2018年8月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
これも大変に難しいです。しかしわからないまま読むことが正しくて、分からないことは悪くありません。こうして内容を刻んでいけばどこかでまとまると思います。近代の超克論などで、先生は僕の好きなヘーゲルとかカント哲学を取り上げていて、目指す道は一緒だから、こう言う物凄く理解不能な本でも、どっかで作者の頂にいたる途上で姿が見えることもあるんじゃないかと
2013年1月8日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
現に与えられているこの世界がどのような構造に媒介されて存立しているか、
この世界がいかにして可能であるかを解明せんとする極めて真摯な試みである。
廣松渉といえば独特の難解な言葉遣いで有名だが、確かに表現にはところどころ
あまり見慣れないものはあるのだが、仏教思想にも精通していたからなのだろうか、
その論旨そのものは私たちの存在の社会的な性質を理論的に探究するものであり
常識的な生活の感覚に照らせばむしろわりと理解しやすいものであると思われる。
著者が自ら実質上の主著というだけあって、堂々たる哲学的な思索の結晶である。
「人びとの意識実態(知覚的に現前する世界)は当人がどのような社会的交通の場のなかで
自己形成をとげてきたかによって規定される。従って、『認識』は個々の主観と客観との
直接的な関係として扱うことはできない。…いまや…他人の存在ということを認識の本質的
な一契機として扱わねばならない。しかも、この他人たるや、これまた、単なる個々の他人
として扱ったのでは不可であり、一定の社会的歴史的関わり合いにある者として、その
ような共同現存在としてのみ、介在する。かかる他人たちの介在が…ものの感じかた、知覚
の仕方まで規制し、いうなれば意識作用のはたらきかたを規制するのであるから、『私が
考える』…ということは『我々が考える』…という性格を本源的に備えている。」(35頁)
「人間は生まれるや否や、親兄弟をはじめ周囲の人々から不断に強制・命令されて行為の様式を
矯正していく。…もし当の行為様式がはじめから自己の慾求と一致しているとすれば、強制を
惹起することもなければ、従ってまた外的な強圧を経験することもないであろう。ところが実際
には、自己の慾求とは背馳する、そして現にそうしないことも一応は可能な…行為を強制される。
この強制・命令された行為が慣い性となるにつれて、元来は具体的な個人であった命令者たちが、
『ヒト』…となり、抽象的な人格に昇華していく。…かくして、一方では人間の人格に固有な、絶対
的・先天的な…命令の自己意識として、そして、他方では超個人的な人格に発する絶対的な命令の
意識として、二極的な当為の意識への理念化を形成しつつ、その実は具体的な諸人格相互間の強制・
強圧を通じて、共同主観的に一致する当為ならびに規範の体系が成立するのである。」(385〜6頁)
この世界がいかにして可能であるかを解明せんとする極めて真摯な試みである。
廣松渉といえば独特の難解な言葉遣いで有名だが、確かに表現にはところどころ
あまり見慣れないものはあるのだが、仏教思想にも精通していたからなのだろうか、
その論旨そのものは私たちの存在の社会的な性質を理論的に探究するものであり
常識的な生活の感覚に照らせばむしろわりと理解しやすいものであると思われる。
著者が自ら実質上の主著というだけあって、堂々たる哲学的な思索の結晶である。
「人びとの意識実態(知覚的に現前する世界)は当人がどのような社会的交通の場のなかで
自己形成をとげてきたかによって規定される。従って、『認識』は個々の主観と客観との
直接的な関係として扱うことはできない。…いまや…他人の存在ということを認識の本質的
な一契機として扱わねばならない。しかも、この他人たるや、これまた、単なる個々の他人
として扱ったのでは不可であり、一定の社会的歴史的関わり合いにある者として、その
ような共同現存在としてのみ、介在する。かかる他人たちの介在が…ものの感じかた、知覚
の仕方まで規制し、いうなれば意識作用のはたらきかたを規制するのであるから、『私が
考える』…ということは『我々が考える』…という性格を本源的に備えている。」(35頁)
「人間は生まれるや否や、親兄弟をはじめ周囲の人々から不断に強制・命令されて行為の様式を
矯正していく。…もし当の行為様式がはじめから自己の慾求と一致しているとすれば、強制を
惹起することもなければ、従ってまた外的な強圧を経験することもないであろう。ところが実際
には、自己の慾求とは背馳する、そして現にそうしないことも一応は可能な…行為を強制される。
この強制・命令された行為が慣い性となるにつれて、元来は具体的な個人であった命令者たちが、
『ヒト』…となり、抽象的な人格に昇華していく。…かくして、一方では人間の人格に固有な、絶対
的・先天的な…命令の自己意識として、そして、他方では超個人的な人格に発する絶対的な命令の
意識として、二極的な当為の意識への理念化を形成しつつ、その実は具体的な諸人格相互間の強制・
強圧を通じて、共同主観的に一致する当為ならびに規範の体系が成立するのである。」(385〜6頁)
2013年5月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
20代に出会った廣松さんですが、読み解く楽しさに満ちています。
2009年4月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
日本哲学界の巨人廣松渉、必殺のデビュー作である。
主観客観図式。他我問題というアポリアをも生み出すこのパラダイムにこそ、現代における科学および哲学の閉塞状況は淵源していると廣松は冒頭で宣言する。主観客観という構図に異議を申し立てた哲学者はむろん廣松が初めてではない。しかしそれに代わる新たなパラダイムを打ち立てようとした(そして現に打ち立てた)のは、国内では後にも先にも廣松だけではなかったか。
認識の場面において、認識される側は「それ以上の或る物」として、認識する側は「それ以上の或る者」として現象する。主観の各私性はこの共同主観性によってまず解除される。さらに主客それぞれの二肢性を併せて成立する四肢構造は、まず関係があってしかる後にそれぞれの項が決まるという点が重要である。関係の第一次性、物より事の方が存在論的に先立つという事的世界観等、廣松哲学はこのデビュー作においてすでに完成の域に達している。
岩波書店版『廣島渉著作集』の第一巻冒頭に収められている本論文は廣松の代表作であり、未完に終わったライフワーク『存在と意味』よりもはるかにコンパクトに、しかも廣松哲学のほぼ全論域がまとまっている。常用範囲をはるかに超えた漢字を多用するその強烈な文体から、拒絶反応を起こしてしまうのはあまりにも勿体無い、日本哲学界の至宝ともいうべき古典的名著である。
主観客観図式。他我問題というアポリアをも生み出すこのパラダイムにこそ、現代における科学および哲学の閉塞状況は淵源していると廣松は冒頭で宣言する。主観客観という構図に異議を申し立てた哲学者はむろん廣松が初めてではない。しかしそれに代わる新たなパラダイムを打ち立てようとした(そして現に打ち立てた)のは、国内では後にも先にも廣松だけではなかったか。
認識の場面において、認識される側は「それ以上の或る物」として、認識する側は「それ以上の或る者」として現象する。主観の各私性はこの共同主観性によってまず解除される。さらに主客それぞれの二肢性を併せて成立する四肢構造は、まず関係があってしかる後にそれぞれの項が決まるという点が重要である。関係の第一次性、物より事の方が存在論的に先立つという事的世界観等、廣松哲学はこのデビュー作においてすでに完成の域に達している。
岩波書店版『廣島渉著作集』の第一巻冒頭に収められている本論文は廣松の代表作であり、未完に終わったライフワーク『存在と意味』よりもはるかにコンパクトに、しかも廣松哲学のほぼ全論域がまとまっている。常用範囲をはるかに超えた漢字を多用するその強烈な文体から、拒絶反応を起こしてしまうのはあまりにも勿体無い、日本哲学界の至宝ともいうべき古典的名著である。
2011年1月11日に日本でレビュー済み
難解な廣松の中では、わりと分かりやすい.
索引をみると
アニミズム
アプリオリ
意識
イデアール
イデオロギー
意味
エトロジー
演技
仮想妊娠
価値
下部構造
喚起
間主観的
とう感じで、どこが一貫的かが分かれば、読み勧められる.
索引をみると
アニミズム
アプリオリ
意識
イデアール
イデオロギー
意味
エトロジー
演技
仮想妊娠
価値
下部構造
喚起
間主観的
とう感じで、どこが一貫的かが分かれば、読み勧められる.