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悲劇の誕生 (中公クラシックス) Kindle版
ギリシア悲劇の起源を問題にする体裁をとりながら、ニーチェの内部に渦巻いていたあらゆる主題が未分離のまま投げ込まれ、強い衝迫力をもってせまってくる。今日なお「問題の書」。
- 言語日本語
- 出版社中央公論新社
- 発売日2004/1/10
- ファイルサイズ776 KB
- 販売: Amazon Services International LLC
- Kindle 電子書籍リーダーFire タブレットKindle 無料読書アプリ
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登録情報
- ASIN : B00LMB2UOU
- 出版社 : 中央公論新社 (2004/1/10)
- 発売日 : 2004/1/10
- 言語 : 日本語
- ファイルサイズ : 776 KB
- Text-to-Speech(テキスト読み上げ機能) : 有効
- X-Ray : 有効にされていません
- Word Wise : 有効にされていません
- 付箋メモ : Kindle Scribeで
- 本の長さ : 282ページ
- Amazon 売れ筋ランキング: - 172,656位Kindleストア (Kindleストアの売れ筋ランキングを見る)
- - 57位中公クラシックス
- - 2,503位思想
- - 3,111位哲学・思想 (Kindleストア)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2021年12月4日に日本でレビュー済み
レポート
Amazonで購入
内容が難解で有る事は承知で読み始めたが、やはり本書を理解する事がほとんど理解出来ないまま読み終えてしまった。ただニーチェへの興味はますます大きくなった。
2人のお客様がこれが役に立ったと考えています
役に立った
2011年4月12日に日本でレビュー済み
この『悲劇の誕生』は、古典文献学者としてのフリードリッヒ・ニーチェ、その若き日の作品である。『悲劇』はニーチェにしては珍しく、理路整然にして、システマティックで、いかにもドイツ人らしい几帳面で生真面目な論文である。しかし古典文献学の世界において、この『悲劇』は認められることはなく、ニーチェにとってもリアルに「悲劇の誕生」になってしまった。
『悲劇』とは何か。
ニーチェは、古代ギリシアの精神史の中から、「アポロン的なもの」と「ディオニュソス的なもの」といった相反するふたつのものを掬いだした。
「アポロン的なもの」というのは「理性的」で「概念的」なものであり、「造形美」に連なるようなものである。つまり「分別くさい」ものなのである。
一方で「ディオニュソス的なもの」というのは「情動的」で「直観的」なものであり、「音楽」的なものへと赴くものである。陶酔で「へろへろ」し、放埓で「ぎらぎら」した、荒々しく「ちゃらんぽらん」なものをその本質として持つものである。
ニーチェの目論見は「アポロン的なもの」と「ディオニュソス的なもの」、その二者の調和・統合のうちから、藝術、彼の場合「悲劇」の可能性をみとめよう、という点にある。
しかし、古代ギリシアにおいて、ソクラテスのような「主知主義」を謳う人があらわれ、「分別くさい」ものが幅を利かせ、世界が「知」と「理」に支配される仕儀と相成るのである。そして「悲劇」は廃れるのである。ニーチェ、がっかりである。
ソクラテスからヘーゲルに至るまでの「分別くさい」理性偏重の哲学の歴史をがらりと変えてしまったニーチェではあるが、「分別くさい」ものへの懐疑は、案外若いうちから芽生えていたのだな、と思うた。
またニーチェの宗教観も、この『悲劇』のうちに見て取ることができる。曰「近代の宗教自体が、その根底において学者宗教に堕し、したがってあらゆる必然的前提ともいうべき神話は、すでにいたるところで、半身不随にかかっている」p167。このようにニーチェは、「学者宗教」、すなわち「知」と「理」によって思弁的に語られた「分別くさい」宗教のあり様を、かくも早い段階からすでに腐している。そしてのちに神を殺すニーチェであった。
ニーチェにしてはおとなしい作品。
『悲劇』とは何か。
ニーチェは、古代ギリシアの精神史の中から、「アポロン的なもの」と「ディオニュソス的なもの」といった相反するふたつのものを掬いだした。
「アポロン的なもの」というのは「理性的」で「概念的」なものであり、「造形美」に連なるようなものである。つまり「分別くさい」ものなのである。
一方で「ディオニュソス的なもの」というのは「情動的」で「直観的」なものであり、「音楽」的なものへと赴くものである。陶酔で「へろへろ」し、放埓で「ぎらぎら」した、荒々しく「ちゃらんぽらん」なものをその本質として持つものである。
ニーチェの目論見は「アポロン的なもの」と「ディオニュソス的なもの」、その二者の調和・統合のうちから、藝術、彼の場合「悲劇」の可能性をみとめよう、という点にある。
しかし、古代ギリシアにおいて、ソクラテスのような「主知主義」を謳う人があらわれ、「分別くさい」ものが幅を利かせ、世界が「知」と「理」に支配される仕儀と相成るのである。そして「悲劇」は廃れるのである。ニーチェ、がっかりである。
ソクラテスからヘーゲルに至るまでの「分別くさい」理性偏重の哲学の歴史をがらりと変えてしまったニーチェではあるが、「分別くさい」ものへの懐疑は、案外若いうちから芽生えていたのだな、と思うた。
またニーチェの宗教観も、この『悲劇』のうちに見て取ることができる。曰「近代の宗教自体が、その根底において学者宗教に堕し、したがってあらゆる必然的前提ともいうべき神話は、すでにいたるところで、半身不随にかかっている」p167。このようにニーチェは、「学者宗教」、すなわち「知」と「理」によって思弁的に語られた「分別くさい」宗教のあり様を、かくも早い段階からすでに腐している。そしてのちに神を殺すニーチェであった。
ニーチェにしてはおとなしい作品。
2010年6月11日に日本でレビュー済み
「アポロ的」な理性による世界把握/記述の外部に広がる、「もの自体」(byカント)の世界。この「外部」のカオスを認識し一体化を欲求することを、いま「ディオニソス的」な情動として置いてみよう。ニーチェにとって生とはこの二つの背反する力の相克だったわけだが、ギリシア悲劇の起源がセリフや演技ではなくコーラス音楽だったことに着目し、ディオニソス的なものをアポロ的日常に召喚するものだったギリシア悲劇が如何にアポロ的演劇に変化していったかという分析が、ひとまずは本書の骨格となっている。だが、ギリシャ古典悲劇から随分時代が経ったお友達のワーグナーをディオニソスとアポロの二つの世界の相克が込められた「悲劇」を再現した才能として賛美する話がかなり強引にくっついているため、論理の進め方が飛躍的で学術的ではない、という評価が出版当時吹き荒れ、結局この本の出版はニーチェの文献学者生命を絶つきっかけの一つになった。そういう意味では確かにラフな書き方の本なのだが、ニーチェの本の論理展開はいつもこうなので(笑)、僕は彼の記述スタイル自体は余り問題だと思っていない。
寧ろ僕は話の中身の方で気になっている点が一つある。かつて福田恆存はマクベス論(「人間/この劇的なるもの」)で、オチの分かってる悲劇に人が惹かれる理由は人間が演劇的存在だからだと論じたが、ニーチェも初期ギリシャ悲劇は筋の展開を最初に登場人物が語ってしまうことを挙げ、筋や演技以外のものを観客達は鑑賞していたはずだと指摘する。彼の分析ではディオニソス的なものを見ていたのだということになるのだが、じゃあなぜディオニソス的なものに人が惹かれるのかという動機の話になると、案外話が薄かったりする。それはアポロとディオニソスの間を永遠に運動することがニーチェの語る生の根拠/動機であり、人がディオニソスに惹かれるのは論じるまでもない生の情動だからだ。僕はこういう熱いニーチェを読むと確かに元気が出るので好きなのだが、でも、マクベスやギリシア悲劇に限らず勧善懲悪時代劇や歌舞伎の心中ものみたいな例も含めて、人がなんで「オチが分かってる話」に夢中になるのか、という動機の話はもっと広がりのあるテーマなような気がするんだよね。今回は特に悲劇論として本書を手にとったので、そこが星を一つ削った理由です。
寧ろ僕は話の中身の方で気になっている点が一つある。かつて福田恆存はマクベス論(「人間/この劇的なるもの」)で、オチの分かってる悲劇に人が惹かれる理由は人間が演劇的存在だからだと論じたが、ニーチェも初期ギリシャ悲劇は筋の展開を最初に登場人物が語ってしまうことを挙げ、筋や演技以外のものを観客達は鑑賞していたはずだと指摘する。彼の分析ではディオニソス的なものを見ていたのだということになるのだが、じゃあなぜディオニソス的なものに人が惹かれるのかという動機の話になると、案外話が薄かったりする。それはアポロとディオニソスの間を永遠に運動することがニーチェの語る生の根拠/動機であり、人がディオニソスに惹かれるのは論じるまでもない生の情動だからだ。僕はこういう熱いニーチェを読むと確かに元気が出るので好きなのだが、でも、マクベスやギリシア悲劇に限らず勧善懲悪時代劇や歌舞伎の心中ものみたいな例も含めて、人がなんで「オチが分かってる話」に夢中になるのか、という動機の話はもっと広がりのあるテーマなような気がするんだよね。今回は特に悲劇論として本書を手にとったので、そこが星を一つ削った理由です。