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歎異抄,教行信証 1 (中公クラシックス J 14) 単行本 – 2003/2/1
- 本の長さ318ページ
- 言語日本語
- 出版社中央公論新社
- 発売日2003/2/1
- ISBN-104121600479
- ISBN-13978-4121600479
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著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2014年3月6日に日本でレビュー済み
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項目別に、しかもそれを要約序文が最初にあり大変判りやすい本です。
2009年1月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
親鸞上人は法然上人の弟子にして浄土真宗の祖師、そして一真理の書「教行信証」を著した方である。親鸞の「教行信証」、その弟子唯円による「歎異抄」との併書が本著『歎異抄・教行信証』である。石田瑞麿氏の素晴らしい訳が本著をまさに名著ならしめている。かつて私は「歎異抄」は拝読したことはあった。「教行信証」はその重厚さと深淵さからなかなか読み出すことができないでいたのだが、この名訳のおかげで本著に挑戦し、かつ完読することができたのである。本当に嬉しかった。本著の中で目が覚める想いをしたことを一つあげるならば、悪人正機(悪人往生)という親鸞の本質を知り得ることができたことである。“善人なをもちて往生をとぐ、いはんや悪人をや” (善人はもちろん悪人でさえも往生して浄土へいくことが出来る)という「歎異抄」の中で語られた親鸞の真意を私はずっと理解できないでいた。“南無阿弥陀仏”と唱えるだけで、果たしてそのような事が可能なのか。それに合点がいかなったのだ。ところが、本著を読了するに至りようやく納得がいった。悪人往生には念仏にくわえ、次の二事が必須不可欠たることを知り得たからである。「懺悔(心から悔い改める)」と「善智識(良い師について智慧を得る)」である。長年に渡る疑念が払拭、氷塊した時であった。石田氏の御慧眼と御精進に心からの賞賛を贈りたい。「教行信証」は他社からも出版されているものの、本著は氏の名訳によって仏教の深淵なる知識が必ずしもなくても、平易に読みすすめることができる。親鸞その人を知りたい方へぜひ本書をお薦めしたい。小乗、大乗の仏教知識があれば、もちろんより一層その理解が深まる。さらに学習したい読者は春秋社『原始仏典』全7巻、あるいは中村元博士の膨大かつ詳細な著書をひもとかれるとよい。釈尊(ブッダ)開祖たる仏教がこの苦の人生への妙薬たるその真髄を知って頂けると幸いである。
2015年2月9日に日本でレビュー済み
この本は「日本の名著〈6〉親鸞 」(中央公論社)の中から「歎異抄」「教行信証」「消息集」をえらんで2冊に分けて収録したIに当たる。内容は最初に宗教学者の山折哲雄氏の文章を紹介しており、次に「歎異抄」と「教行信証」の教・行・信巻までが載っている。
「歎異抄」はわかりやすいが、親鸞の弟子の唯円による聞き書であり、まぎれもなく親鸞自身が書いた「教行信証」こそ第一次資料であって、親鸞の思想を知るにはまさにこれに当たるべきなのだが、実におびただしい数の仏典からの引用文で埋められていて、普通の人にはなかなか近づきにくい難解な書物でもある。なお「教行信証」の底本には、東本願寺蔵の坂東本を用い、欠損部分は西本願寺本によって補っている。
「教行信証」はまず序があって、仏の名前が、悪を転じて徳に変える正しい智慧であり、信ずることの難しい、金剛石のようにくじけない信心(金剛信楽)が、疑いを除いて、さとりをえさせる真実の理法であるとわかったと記す。教巻は、真実の教えが、阿弥陀仏の願いであることを明かすもので、行巻は真実の行が仏から与えられる称名念仏以外にはないことを説くもので、信巻は、真実の信心は、自力信心ではなく、仏から回向されるものだと説く。
「歎異抄」はわかりやすいが、親鸞の弟子の唯円による聞き書であり、まぎれもなく親鸞自身が書いた「教行信証」こそ第一次資料であって、親鸞の思想を知るにはまさにこれに当たるべきなのだが、実におびただしい数の仏典からの引用文で埋められていて、普通の人にはなかなか近づきにくい難解な書物でもある。なお「教行信証」の底本には、東本願寺蔵の坂東本を用い、欠損部分は西本願寺本によって補っている。
「教行信証」はまず序があって、仏の名前が、悪を転じて徳に変える正しい智慧であり、信ずることの難しい、金剛石のようにくじけない信心(金剛信楽)が、疑いを除いて、さとりをえさせる真実の理法であるとわかったと記す。教巻は、真実の教えが、阿弥陀仏の願いであることを明かすもので、行巻は真実の行が仏から与えられる称名念仏以外にはないことを説くもので、信巻は、真実の信心は、自力信心ではなく、仏から回向されるものだと説く。
2020年4月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
親鸞の弟子の唯円が生前の親鸞の教えを著した『歎異抄』は、親鸞の教えを分かりやすく説く書物として愛読されてきた。
①その中に「(念仏を称える)その人にとって、念仏は〈行〉(修行)でも、〈善〉(善行)でもない」という親鸞の言葉が記されている。鎌倉仏教は易行 を説いたのでも、民衆に受け入れられたと考えられてきた。しかし、親鸞は念仏を称えることは〈行〉ではないと述べる。その真意は何か?
②親鸞にとって念仏とは、自力に頼ることが出来ない〈悪人〉が称えるものである。〈行〉(修行)とは、自力で仏陀の教えを理解し、自ら仏となることを目指して行う修行を意味する。
③したがって阿弥陀仏の本願(他力)にすがる悪人は自ら修行を行う子とは出来ない。ゆえに、悪人は行が出来ないのであるから、〈善〉(善行)を積むことも出来ないのである。
④では、悪人が称える「南無阿弥陀仏」という言葉(念仏)は、阿弥陀仏にすがり、阿弥陀仏を讃える心の叫び=信心の表明を意味するであろう。
⑤末法の世に悪人が出来ることは、信心の表明のみであり、これが念仏なのである。このように考えて『歎異抄』を読めば、少しは理会可能であるように思われる。『歎異抄』から『教行信証』へと進みたい。
分かりやすく、味わい深い現代語訳が素晴らしい。原文を読むのは後で良い。何度もこの現代語訳を味読したい。
お勧めの一冊だ。
①その中に「(念仏を称える)その人にとって、念仏は〈行〉(修行)でも、〈善〉(善行)でもない」という親鸞の言葉が記されている。鎌倉仏教は易行 を説いたのでも、民衆に受け入れられたと考えられてきた。しかし、親鸞は念仏を称えることは〈行〉ではないと述べる。その真意は何か?
②親鸞にとって念仏とは、自力に頼ることが出来ない〈悪人〉が称えるものである。〈行〉(修行)とは、自力で仏陀の教えを理解し、自ら仏となることを目指して行う修行を意味する。
③したがって阿弥陀仏の本願(他力)にすがる悪人は自ら修行を行う子とは出来ない。ゆえに、悪人は行が出来ないのであるから、〈善〉(善行)を積むことも出来ないのである。
④では、悪人が称える「南無阿弥陀仏」という言葉(念仏)は、阿弥陀仏にすがり、阿弥陀仏を讃える心の叫び=信心の表明を意味するであろう。
⑤末法の世に悪人が出来ることは、信心の表明のみであり、これが念仏なのである。このように考えて『歎異抄』を読めば、少しは理会可能であるように思われる。『歎異抄』から『教行信証』へと進みたい。
分かりやすく、味わい深い現代語訳が素晴らしい。原文を読むのは後で良い。何度もこの現代語訳を味読したい。
お勧めの一冊だ。