ディケンズで味わった19世紀ロンドン、
あのムードの中で、あたかも家族劇のように展開する社会小説の意外さには驚き!
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密偵 (岩波文庫 赤 248-2) 文庫 – 1990/6/18
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某大使館に傭われてアナーキスト・グループにまじり内情を流す密偵ヴァーロック.上司は彼にグリニッジ天文台爆破を命ずるが,事態は思惑をはずれて意外な方向に…….巨大で陰欝な都市ロンドンにうごめく孤独で卑小な人物たちのドラマを,コンラッド(一八五七‐一九二四)は皮肉たっぷりの筆致で描きだす.近年再評価の声高い傑作長篇.
- 本の長さ475ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日1990/6/18
- ISBN-104003224825
- ISBN-13978-4003224823
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上位レビュー、対象国: 日本
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2019年9月22日に日本でレビュー済み
このコンラッドの小説『密偵』(1907年)は、タイトル(原題はThe Secret Agent)から想像されるようなスパイ小説でも陰謀小説でも政治小説でもサスペンス小説でもありません。また手法的に、社会の風俗を広く写しとり人物の行動・心理を丹念に描いて時系列に沿って展開していく通常のリアリズム小説でも必ずしもありません。
小説には、ヴァーロック氏、その妻ウィニー、彼女の弟スティーヴィーを中心に、ほか何人もの人物が登場します。
そしてある人物が登場すると、物語の視点は、その人物が視点人物になるのですが、章が変わると、物語の視点はリレーがなされるように、別の人物が視点人物となる、というように物語の中心となる人物が変わると同時に物語の視点も切りかわってゆくようなところがあります。
そのため、物語全体を俯瞰して物語を進行させてゆくような統合的な視点というものがないため、この小説では、そこに起こる重大な出来事も、さまざまな人物の視点から断片的に語られたものになっています。
また、その重大な出来事(はっきりいえば爆弾テロ)それじたいも、そうやって積み重ねられた物語の断片がそこへと収斂して、そこがクライマックスとなるような小説の中心テーマになっているわけでもないということです。
この小説で面白いのは、それぞれに強い癖があって、またそれぞれが利己的に生きている登場人物たち、そういう彼らの行動や心理を描写するのに、皮肉っぽいというか、うっすら諧謔をふくませた書き方がなされていることです。
またときに「オデュッセウスを待つペネローペーのように」とか、「精力的なドン・キホーテのような誇張した表情」とか「ベルシャザル王のように壁に物書ける手の指を見はしなかった」のような神話や古典、聖書をふまえたこれも大げさな、いや大げさすぎる比喩が用いられていて、それがかえってある種の滑稽さをかもしだしています。
そうした書かれたかたは、人物たちに誰ひとり例外なく一種の戯画化の効果をもたらしているというか、とにかくどの登場人物の描写にも戯画的な色合いがうっすらとついているために、どの人物もなんともいえぬようなかすかな喜劇性がまとわりついています。
(ただし知的障害のある弟スティーヴィーへの愛情をのぞいてはほとんど感情を殺して生きているウィニーは別)
作家は、登場する人物について、語りの対象となるその都度、その人物の精細な心理描写に入ってゆき、細密に描写のことばが重ねられてゆくのですが、そこで小説の語りがエゴの固まりともいうべき卑小な心理を拡大的にいちいち大仰にたどってゆけばゆくほど、人物の滑稽なありようが浮かびあがってくるといったらいいでしょうか。
コンラッドは、1857年、現在はロシア領となっている地でポーランド人の家系のもとに生まれ、母語はおそらくポーランド語とロシア語、英語は成年になって習得した言語であるため、かれの書く英文も独特のものがあり、なかなか日本語に噛みくだくのがたいへんな固い抽象名詞がぎごちなく多用されたりしています。
たとえば第11章に「***の暴力的飛散」(原文は " ***'s violent disintegration"となっていて、***に人物名が入っています )という抽象的に表現された描写があって、それはある人物が爆弾によって身体がばらばらになって激しく飛び散ったことの表現なのですが、あまりにもそっけなく抽象化され圧縮された表現なので、文脈がないとなんのことかたぶん分からないのではないでしょうか。一瞬の現象を二語で簡潔にとらえているわけですが、その無機的な表現の唐突さにとまどいつつも、しかしあらためてその表現を見なおしてみるとその適切さに納得もします)。
ノン・ネイティブ作家のその異化された、なにか直接的で大仰な英語が、この小説でまさになんとも絶妙な効果を発揮しているように思えます。
そういうことからして、訳者が本書で、噛みくだいた訳でわかりやすくするのではなく、あえて直訳調を選んだのも、小説におけるこの文体効果を考慮してのことだったのでしょう。
とにかくこの小説は、おおよそ三分の二くらいのところまではなかなか大きな展開が見られないのですが、上でのべた爆弾事件のあと、さらに最後もうひとつ重大な出来事が起こります。
その前後からしだいに、そして急速に事件周囲の関係人物たちに迫ってくる深刻な状況は、しかし、かれらが追いこまれるその状況が深刻さを増せば増すほど、かれらが深刻になってあたふたすればするほど、そしてそこで大仰な描写がこれでもかこれでもかと細密、精細になされればなされるほど、妙にかえって笑劇ともみえはじめるところがあり、そこがこの小説のいちばんの圧巻部分かもしれません。
とりわけ、相手の女が深刻な心理状態に陥って苦しみの極限にまで追いつめられているのに、そんなことにはまるで思いいたらず、逆に慰めてやるからとばかりにベッドならぬソファへと誘おうとする鈍感な男、そしてその後起こった出来事でさらに混乱の極みにある女が自分にすがりついてきたのを見て、ようやく女は自分に好意を寄せてきたのだと脳天気にも勘違いして保護者気取りで行動をともにするオマヌケな別の男――とくに後のほうでは、両者の思惑がずれていけばいくほど、そのずれが大きくなればなるほど、ふたりの会話は表面上かみあっている分、なんとも(お笑いのコントのような)可笑しさが増してゆく…(ところどころ評者は思わず笑ってしまいました)
そこに、コンラッドのこの小説の他に類を見ない面白さがあることはたしかです。
それにしても、神話や古典、聖書をふまえた比喩の多用ではトマス・ハーディ、小説主題としてのアナキスト(コンラッドはロンドンのアナキスト・グループをめぐる物語として短篇「密告者」も書いています)によるテロ活動ではチェスタトンの『木曜日だった男』(1905年)、登場人物のたえざる戯画化、深刻な出来事の笑劇化ではE.M.フォースターの『ハワーズ・エンド』(1910年)等、小説における人物視点のたえまない切り替えにおいてはヴァージニア・ウルフの『灯台へ』(1927年)などを想起させるものがあって、世紀転換期から20世紀初頭のイギリスにおける文学傾向をこのコンラッドの小説も深く共有しているようにも思われるのですが、はてさてそう考えていいものなのかどうか…
ただコンラッドのつぎの傑作長篇『西欧人の眼に』(1911年)になると、同じようなスパイものながら、この『密偵』にあったような登場人物の戯画的な描写はなくなり、ひたすら人間の実存に深く迫る、重く緊張感にみちた描写につらぬかれた作品が書かれることになります。
なお、この小説は、ヒッチコック監督の映画『サボタージュ』(1937年)の原作になっているようですが、小説と映画ではかなり違ったものになっています。
サボタージュは、「怠業」の意味で日本語の「サボる」の語源になっているものだから、そもそもこの映画タイトルでは日本の視聴者に誤解を呼ぶ可能性がなくもありません。
まあ英語ネイティブでも誤解する可能性があるのか、この映画の冒頭にまず、英語辞書のsabotage が載るページが大写しになって、原語での意味がまず「破壊工作」であることがちゃんとわかるようになってはいますが。
この映画ではなによりヴァーロックを演じたオスカー・ホモルカの、悪人づら(失礼!)ともいえる、なんとも癖のある顔が強い印象を残します。
いっぽう、ヒッチコックのものとはちがって、コンラッドのこの小説のストーリーをその大筋においてのみではあるけれどほぼ忠実に映画化したものがあります。
ボブ・ホスキンスがヴァーロック、パトリシア・アークェットがウィニー、クリスチャン・ベールがスティーヴィーを演じている、小説と同題の映画"The Secret Agent"(監督クリストファー・ハンプトン、1996年、95分)がそれです。
映画は、ロビン・ウィリアムズ演じる「教授」が人混みのなかを歩くオープニングクレジットの入った冒頭部分のあと(しかしどういうわけかそのロビン・ウィリアムズの名前はクレジットには出てこない)、ウィニーがスティーヴィーをつれて母親を養老院に送りだす場面からはじまっています。
ただ残念ながら、これはいま書いたようにほんとうにストーリーの大筋のみをなんとかたどっているだけのもので、上で述べたような原作のもつ面白さがまったく消え失せてしまっています。
深刻な事態へとつきすすむ物語をたえずアイロニーをふくんだ描写で笑劇のようなものにする、小説の絶妙なストーリーテリングというか語り口というか文体というか、そういうものが、この映画、というかその映画的文体には一切見られません。
もちろん映画は映画として観、かつ評価する必要があります。映画の画面は終始暗く、ほとんどの場面はスタジオ・セットで撮られたもので、それゆえか全体が重苦しい室内劇ふうの感じがします。
それはともかく、こちらはどうしても原作の小説を知っていて、その強い印象が残っているため、公平な評価ではないことを承知の上でいえば、映画としての魅力があるかどうかでは否定的にならざるをえません。
小説には、ヴァーロック氏、その妻ウィニー、彼女の弟スティーヴィーを中心に、ほか何人もの人物が登場します。
そしてある人物が登場すると、物語の視点は、その人物が視点人物になるのですが、章が変わると、物語の視点はリレーがなされるように、別の人物が視点人物となる、というように物語の中心となる人物が変わると同時に物語の視点も切りかわってゆくようなところがあります。
そのため、物語全体を俯瞰して物語を進行させてゆくような統合的な視点というものがないため、この小説では、そこに起こる重大な出来事も、さまざまな人物の視点から断片的に語られたものになっています。
また、その重大な出来事(はっきりいえば爆弾テロ)それじたいも、そうやって積み重ねられた物語の断片がそこへと収斂して、そこがクライマックスとなるような小説の中心テーマになっているわけでもないということです。
この小説で面白いのは、それぞれに強い癖があって、またそれぞれが利己的に生きている登場人物たち、そういう彼らの行動や心理を描写するのに、皮肉っぽいというか、うっすら諧謔をふくませた書き方がなされていることです。
またときに「オデュッセウスを待つペネローペーのように」とか、「精力的なドン・キホーテのような誇張した表情」とか「ベルシャザル王のように壁に物書ける手の指を見はしなかった」のような神話や古典、聖書をふまえたこれも大げさな、いや大げさすぎる比喩が用いられていて、それがかえってある種の滑稽さをかもしだしています。
そうした書かれたかたは、人物たちに誰ひとり例外なく一種の戯画化の効果をもたらしているというか、とにかくどの登場人物の描写にも戯画的な色合いがうっすらとついているために、どの人物もなんともいえぬようなかすかな喜劇性がまとわりついています。
(ただし知的障害のある弟スティーヴィーへの愛情をのぞいてはほとんど感情を殺して生きているウィニーは別)
作家は、登場する人物について、語りの対象となるその都度、その人物の精細な心理描写に入ってゆき、細密に描写のことばが重ねられてゆくのですが、そこで小説の語りがエゴの固まりともいうべき卑小な心理を拡大的にいちいち大仰にたどってゆけばゆくほど、人物の滑稽なありようが浮かびあがってくるといったらいいでしょうか。
コンラッドは、1857年、現在はロシア領となっている地でポーランド人の家系のもとに生まれ、母語はおそらくポーランド語とロシア語、英語は成年になって習得した言語であるため、かれの書く英文も独特のものがあり、なかなか日本語に噛みくだくのがたいへんな固い抽象名詞がぎごちなく多用されたりしています。
たとえば第11章に「***の暴力的飛散」(原文は " ***'s violent disintegration"となっていて、***に人物名が入っています )という抽象的に表現された描写があって、それはある人物が爆弾によって身体がばらばらになって激しく飛び散ったことの表現なのですが、あまりにもそっけなく抽象化され圧縮された表現なので、文脈がないとなんのことかたぶん分からないのではないでしょうか。一瞬の現象を二語で簡潔にとらえているわけですが、その無機的な表現の唐突さにとまどいつつも、しかしあらためてその表現を見なおしてみるとその適切さに納得もします)。
ノン・ネイティブ作家のその異化された、なにか直接的で大仰な英語が、この小説でまさになんとも絶妙な効果を発揮しているように思えます。
そういうことからして、訳者が本書で、噛みくだいた訳でわかりやすくするのではなく、あえて直訳調を選んだのも、小説におけるこの文体効果を考慮してのことだったのでしょう。
とにかくこの小説は、おおよそ三分の二くらいのところまではなかなか大きな展開が見られないのですが、上でのべた爆弾事件のあと、さらに最後もうひとつ重大な出来事が起こります。
その前後からしだいに、そして急速に事件周囲の関係人物たちに迫ってくる深刻な状況は、しかし、かれらが追いこまれるその状況が深刻さを増せば増すほど、かれらが深刻になってあたふたすればするほど、そしてそこで大仰な描写がこれでもかこれでもかと細密、精細になされればなされるほど、妙にかえって笑劇ともみえはじめるところがあり、そこがこの小説のいちばんの圧巻部分かもしれません。
とりわけ、相手の女が深刻な心理状態に陥って苦しみの極限にまで追いつめられているのに、そんなことにはまるで思いいたらず、逆に慰めてやるからとばかりにベッドならぬソファへと誘おうとする鈍感な男、そしてその後起こった出来事でさらに混乱の極みにある女が自分にすがりついてきたのを見て、ようやく女は自分に好意を寄せてきたのだと脳天気にも勘違いして保護者気取りで行動をともにするオマヌケな別の男――とくに後のほうでは、両者の思惑がずれていけばいくほど、そのずれが大きくなればなるほど、ふたりの会話は表面上かみあっている分、なんとも(お笑いのコントのような)可笑しさが増してゆく…(ところどころ評者は思わず笑ってしまいました)
そこに、コンラッドのこの小説の他に類を見ない面白さがあることはたしかです。
それにしても、神話や古典、聖書をふまえた比喩の多用ではトマス・ハーディ、小説主題としてのアナキスト(コンラッドはロンドンのアナキスト・グループをめぐる物語として短篇「密告者」も書いています)によるテロ活動ではチェスタトンの『木曜日だった男』(1905年)、登場人物のたえざる戯画化、深刻な出来事の笑劇化ではE.M.フォースターの『ハワーズ・エンド』(1910年)等、小説における人物視点のたえまない切り替えにおいてはヴァージニア・ウルフの『灯台へ』(1927年)などを想起させるものがあって、世紀転換期から20世紀初頭のイギリスにおける文学傾向をこのコンラッドの小説も深く共有しているようにも思われるのですが、はてさてそう考えていいものなのかどうか…
ただコンラッドのつぎの傑作長篇『西欧人の眼に』(1911年)になると、同じようなスパイものながら、この『密偵』にあったような登場人物の戯画的な描写はなくなり、ひたすら人間の実存に深く迫る、重く緊張感にみちた描写につらぬかれた作品が書かれることになります。
なお、この小説は、ヒッチコック監督の映画『サボタージュ』(1937年)の原作になっているようですが、小説と映画ではかなり違ったものになっています。
サボタージュは、「怠業」の意味で日本語の「サボる」の語源になっているものだから、そもそもこの映画タイトルでは日本の視聴者に誤解を呼ぶ可能性がなくもありません。
まあ英語ネイティブでも誤解する可能性があるのか、この映画の冒頭にまず、英語辞書のsabotage が載るページが大写しになって、原語での意味がまず「破壊工作」であることがちゃんとわかるようになってはいますが。
この映画ではなによりヴァーロックを演じたオスカー・ホモルカの、悪人づら(失礼!)ともいえる、なんとも癖のある顔が強い印象を残します。
いっぽう、ヒッチコックのものとはちがって、コンラッドのこの小説のストーリーをその大筋においてのみではあるけれどほぼ忠実に映画化したものがあります。
ボブ・ホスキンスがヴァーロック、パトリシア・アークェットがウィニー、クリスチャン・ベールがスティーヴィーを演じている、小説と同題の映画"The Secret Agent"(監督クリストファー・ハンプトン、1996年、95分)がそれです。
映画は、ロビン・ウィリアムズ演じる「教授」が人混みのなかを歩くオープニングクレジットの入った冒頭部分のあと(しかしどういうわけかそのロビン・ウィリアムズの名前はクレジットには出てこない)、ウィニーがスティーヴィーをつれて母親を養老院に送りだす場面からはじまっています。
ただ残念ながら、これはいま書いたようにほんとうにストーリーの大筋のみをなんとかたどっているだけのもので、上で述べたような原作のもつ面白さがまったく消え失せてしまっています。
深刻な事態へとつきすすむ物語をたえずアイロニーをふくんだ描写で笑劇のようなものにする、小説の絶妙なストーリーテリングというか語り口というか文体というか、そういうものが、この映画、というかその映画的文体には一切見られません。
もちろん映画は映画として観、かつ評価する必要があります。映画の画面は終始暗く、ほとんどの場面はスタジオ・セットで撮られたもので、それゆえか全体が重苦しい室内劇ふうの感じがします。
それはともかく、こちらはどうしても原作の小説を知っていて、その強い印象が残っているため、公平な評価ではないことを承知の上でいえば、映画としての魅力があるかどうかでは否定的にならざるをえません。
2013年8月4日に日本でレビュー済み
*【ネタバレしているので、本書を未読の方は巻末の「作者ノート」「解題」と、ここのレビューは読まない事をお薦めします。】
「密偵」というタイトルに惹かれて購入しました。しかし、いわゆるスパイ小説ではなく、二十世紀初頭のロンドンを舞台にしたあるテロに関わった者たちの悲劇の物語です。
序盤はなかなか話が進まず読むのに苦労しましたが、主人公ヴァーロック氏の家族に焦点を絞るようになるあたりから、少しずつ引き込まれていきました。
登場人物のほとんどが自己中心的で自分第一、そうでないのは、主人公の妻の知的障害を持つ弟だけで、それだけに彼の純粋さは痛々しいほど。
骨太の文章が、卑小でそれでいて 同情せざるを得ない哀れな人間たちの歪んだ心理を描き出し、悲劇は連鎖していく。
特にここで描写される、貞淑な善人だと思われていた主人公の妻の狂気は相当なリアリティーをもって読者に迫ってきます。
百年以上前に既にこのような作品があった事を考えると、昨今の人の心の暗い部分をテーマにしたミステリー小説などは、結局焼き直しに過ぎないのだなと感じてしまいます。
著者は、当時ヨーロッパ各地で頻発していたテロに対してかなりの義憤を抱いていたようで、そう考えると本作には、テロという行為は被害者だけではなく、実行者とその近しい者にも不幸な結末しかもたらさない、という想いが込められているような気もしました。
「密偵」というタイトルに惹かれて購入しました。しかし、いわゆるスパイ小説ではなく、二十世紀初頭のロンドンを舞台にしたあるテロに関わった者たちの悲劇の物語です。
序盤はなかなか話が進まず読むのに苦労しましたが、主人公ヴァーロック氏の家族に焦点を絞るようになるあたりから、少しずつ引き込まれていきました。
登場人物のほとんどが自己中心的で自分第一、そうでないのは、主人公の妻の知的障害を持つ弟だけで、それだけに彼の純粋さは痛々しいほど。
骨太の文章が、卑小でそれでいて 同情せざるを得ない哀れな人間たちの歪んだ心理を描き出し、悲劇は連鎖していく。
特にここで描写される、貞淑な善人だと思われていた主人公の妻の狂気は相当なリアリティーをもって読者に迫ってきます。
百年以上前に既にこのような作品があった事を考えると、昨今の人の心の暗い部分をテーマにしたミステリー小説などは、結局焼き直しに過ぎないのだなと感じてしまいます。
著者は、当時ヨーロッパ各地で頻発していたテロに対してかなりの義憤を抱いていたようで、そう考えると本作には、テロという行為は被害者だけではなく、実行者とその近しい者にも不幸な結末しかもたらさない、という想いが込められているような気もしました。
2016年3月17日に日本でレビュー済み
タイトルから政治エンターテイメントを予想していたが違った。1907年に発表された、世界屈指の大都会ロンドンを舞台に繰り広げられるコンラッドの群像劇は、ひとの弱さと悲劇を見事に描き切る。
作品の内容からみて、タイトルは"密偵"ではなく、"シークレット・エージェント"のほうが良かったのかもしれない。
世界帝国イギリスのひとつの象徴でもあるグリニッジ天文台の爆破。それが長年、"某帝国の密偵"を務めたヴァーロック氏に課せられた新しい使命。
3人のアナーキストに爆弾魔、国会議員とその私設秘書、スコットランドヤード屈指の辣腕刑事と、その上司である警視。みながみな「私的な理由」で正義を追及する世紀末の濁世において、ひとり純粋さを保つunbalanced manと、その姉にして密偵の妻。11章の殺人シーンは圧巻だ。
・「手段を選ぶ際して逡巡を捨てる決意。破壊者の名を公然と受ける強さ。人間のための永遠の死を志願し、腐敗した世の中に蔓延する諦めきったペシミズムに染まらない者たちの集団」を夢見る(p63)老アナーキスト、ミケイリスの語る理想の集団は、ISISの迷い宣うところに似ている。
・プロレタリアートの先導者を自認する社会革命家を「社会の因習の奴隷だ」と蔑む爆弾魔"プロフェッサー"は「絶対に一人で仕事をする気概」(p103)を持ち、コートの下に爆弾を常時携帯していることが自慢だ。「遵法という迷信めいた信仰を打破すること。警官が白昼堂々、社会主義者を射殺するような世界」を夢見て「完全な起爆装置」の発明に執念を燃やす人生。これもひとつの人生か。
・中央赤色委員会の指令下、秩序だった社会が顕現する未来。これがオシポンの理想。テロリストといえど、崇めるところは三者三様か。
計画に失敗し、グリニッジパークで誤爆する爆弾。木っ端微塵となった爆弾所持者。捜査中に発見した衣類の切れ端に縫い付けられたネームタグから、ヒート警部はヴァーロック氏の住居兼店舗にたどり着くが……。
読み進めるに従い、本作の主人公はヴァーロック氏でもヒート警部でもなく、ある女性であることがわかってくる。それはコンラッド自身による「作者ノート」にも記されている。
悲しい運命の人、ウィニー夫人と純粋なスティーヴィーの魂に安らぎあれ。
作品の内容からみて、タイトルは"密偵"ではなく、"シークレット・エージェント"のほうが良かったのかもしれない。
世界帝国イギリスのひとつの象徴でもあるグリニッジ天文台の爆破。それが長年、"某帝国の密偵"を務めたヴァーロック氏に課せられた新しい使命。
3人のアナーキストに爆弾魔、国会議員とその私設秘書、スコットランドヤード屈指の辣腕刑事と、その上司である警視。みながみな「私的な理由」で正義を追及する世紀末の濁世において、ひとり純粋さを保つunbalanced manと、その姉にして密偵の妻。11章の殺人シーンは圧巻だ。
・「手段を選ぶ際して逡巡を捨てる決意。破壊者の名を公然と受ける強さ。人間のための永遠の死を志願し、腐敗した世の中に蔓延する諦めきったペシミズムに染まらない者たちの集団」を夢見る(p63)老アナーキスト、ミケイリスの語る理想の集団は、ISISの迷い宣うところに似ている。
・プロレタリアートの先導者を自認する社会革命家を「社会の因習の奴隷だ」と蔑む爆弾魔"プロフェッサー"は「絶対に一人で仕事をする気概」(p103)を持ち、コートの下に爆弾を常時携帯していることが自慢だ。「遵法という迷信めいた信仰を打破すること。警官が白昼堂々、社会主義者を射殺するような世界」を夢見て「完全な起爆装置」の発明に執念を燃やす人生。これもひとつの人生か。
・中央赤色委員会の指令下、秩序だった社会が顕現する未来。これがオシポンの理想。テロリストといえど、崇めるところは三者三様か。
計画に失敗し、グリニッジパークで誤爆する爆弾。木っ端微塵となった爆弾所持者。捜査中に発見した衣類の切れ端に縫い付けられたネームタグから、ヒート警部はヴァーロック氏の住居兼店舗にたどり着くが……。
読み進めるに従い、本作の主人公はヴァーロック氏でもヒート警部でもなく、ある女性であることがわかってくる。それはコンラッド自身による「作者ノート」にも記されている。
悲しい運命の人、ウィニー夫人と純粋なスティーヴィーの魂に安らぎあれ。
2005年6月24日に日本でレビュー済み
物語を照らす照明がヴァーロック夫人の心の状態に従って
次第に暗くなっていっていると思いました。
特に息子のように可愛がってきた弟が死んで以降は、
今までの夫人とは思われないくらい人の内にある残忍性を噴出していると思いました。
人間の中に潜む闇という存在がいかにして人の運命を変えてしまうを見て取れました。
自分の身内がテロで死に、そのテロを仕掛けたのが別の自分の身内であったという
複雑な夫人の心理状況を描けていたと思います。
次第に暗くなっていっていると思いました。
特に息子のように可愛がってきた弟が死んで以降は、
今までの夫人とは思われないくらい人の内にある残忍性を噴出していると思いました。
人間の中に潜む闇という存在がいかにして人の運命を変えてしまうを見て取れました。
自分の身内がテロで死に、そのテロを仕掛けたのが別の自分の身内であったという
複雑な夫人の心理状況を描けていたと思います。