表題に掲げた言葉は、たぶん、学生時代に読んだ新書版の戸坂潤著『科学的精神の探求』で、知った言葉だと思います。
この言葉は、アドルノの『否定弁証法』(作品社、木田元他訳、1996年6月発行)の190頁に記載されていて宣伝用の帯にも
使われている
「この束の間の人生を除いてどこにも根源などありはしない。」
という言葉と合通じるものがあると感じています。当然この「根源」という言葉は、あの「偉大な」ハイデッガーが好んで
使った言葉のようですが、それに対する痛烈な皮肉・反論にもなっているのでしょう。
凡庸な日常生活を充実して送ること、それに全力で取り組むこと、目の前に立ちふさがる現実や障害物は、それをぶち壊すか
溶かしてしまうか等々、やり方はいろいろあるが、積極的に引き受けること以外に「彼岸」や「向こう岸」など無い、という
ことですね(逃げられるなら、「逃げる」というのも一つの有力な「手」でしょう。あの浅田彰の『逃走論』ではないですが)。
ナチスに協力したハイデッガーの主著『存在と時間』は熊野純彦が岩波文庫で訳していますので、一度は読んでみようと思って
います(一度や二度読んだくらいで理解できないとは思いますが)が、所詮、ナチスに協力した「三流」哲学者ですから、
そんなに時間をかけてもしようがありません(老い先短いですので)。哲学は、良い人生(または、正しい人生)を送るための
指南のためにあるのでしょうから、「間違った」人生を送った人の哲学が「正しい」はずはありません。ハイデッガーの講義を
聴いた人々には、けっこう心酔者も多いようです(たとえば、ハンナ・アーレントやハンス・ゲオルク・ガダマー等)が、宗教
ではありませんので、「人生を間違った」人の哲学は、救いようが無いように思います。
深遠そうな言葉を使って、人間の存在や物の「根源」を説き、ニセの「真理」を吐いても、「屁の突っ張りにもならない」
どころか害悪そのものです(が、とにかく、一回くらいは読んでみるつもりです)。
その点、戸坂潤の人生はすばらしいですね。戸坂潤については、学生時代に、勁草書房から出ていた『戸坂潤全集 全5巻』は
購入しましたが、全く読んでいません。今は、物置で、同じ勁草書房の『古在由重全集 全?巻』と一緒にカビまみれで腐って
いるかもしれません。上記の新書版の『科学的精神の探求』と『回想の戸坂潤』は、たぶん読んだと思います。また、本書にも
出てくる愛人の光成秀子の『戸坂潤と私』(晩聲社、1977年10月、本書「参考文献」より)は読みました。この愛人問題に
ついては、古在由重が戸坂潤を批判した、というようなことをどこかの文章で読んだ記憶があります。岩波文庫の
『日本イデオロギー論』は、出たときにすぐに買いましたが、まだ読んでいませんので、これから読もうと思います。
また、本書の著者は、ほぼ同じ時代(獄死した戸坂潤は戦前・戦中だけですが、戦後が入ります)を、古在由重を中心に描いた
『ある哲学者の軌跡--古在由重と仲間たち』(花伝社、2012年11月発行)を書いています。こちらは、700頁以上の大書ですが、
本書同様、興味深く読めますので、一読をお勧めします。
では、本書を、引用を主、コメントは従にして、紹介します。
著者の、本書を書いた意図の一部を、「まえがき」から紹介します。
「本書は、その15年戦争下、特高の厳しい監視のもとにあって、反ファシズムの志をもって活動した唯物論研究会と
そこに結集した戸坂潤をはじめとする人びとの物語である。
いまなぜ、1930年代の唯物論研究会と戸坂潤、そしてその周辺の人びとの足跡をたどろうとするのか?端的に言って、
戦後70年、まがりなりにも民主主義と平和を維持してきたこの国で、憲法を死滅させる「安全保障法制」なるものが
準備され、いま再び「戦争とファシズムの跫音」が聞こえ始めたからである。
その跫音がさらに近づくか遠ざかるかは、すべてわれわれの手にゆだねられている。その意味で、ファシズムに抗した
戦時下の苦難の歴史と、その人々の人間模様、そしてその日常を知るのは、あながち無駄なことではないと思うから
である。」(P.6)
丸山真男が官憲に捕まったことで有名な(丸山教信者の間でしか有名ではないのかも知れませんが)唯物論研究会講演会の記載が
ありますので、引用・紹介します。丸山が戦前・戦中を蛇蝎のごとく嫌った大きな原因の一つでしょう。今の北朝鮮や中国も似た
ようなものですね。戦前・戦中の反省もできない連中が、中国や北朝鮮をなんだかんだと言って、非難するのは笑止千万です
ね。あの安倍某や菅某たちは「知性」が全く欠如しています(知性ではなく、「知性」です。カッコが付いています。かりそめ
の知性すら無いという意味です)から、早く追い落とすしかありません。上記のアドルノも、最初の頃は、ヒトラーを馬鹿に
して、こんな体制はすぐにでも崩れるに違いないと思っていたようです。ドイツの一般の知識人やブルジョア階級の連中も、
ヒトラーを小馬鹿にしていたようですから、「馬鹿」だからと言って、無視したり、軽く扱うと、本当に手痛いしっぺ返しを
食うことになりますね。
では、引用します。
「発起人(唯物論研究会の 書評者注)のひとりで温厚なアカデミシャン本多謙三が健康をくずして退会した2月
(1933年 書評者注)、共産党への資金提供容疑で岡邦雄と石井友幸が検挙され、一月ほどブタ箱入りとなった。
この検挙によって岡は物理学校を、石井は文理大学を追われた。
2月20日正午過ぎ、小林多喜二が特高に逮捕された。多喜二は石井が留置されていた築地署の隣房で特高3人の激しい
拷問を受け、逮捕当日の夜8時前、一言も口を聞かないまま息を引き取った。特高はあわてて多喜二を廊下を隔てた
保護室に入れ、警察医が申し訳的に人工呼吸を施した。
4月10日午後6時から本郷仏教青年会館で、第2回唯物論講演会が開かれた。第1回ほどではなかったが、それでも定刻
には続々集まり300人ほどが会場を埋めた。司会の戸坂潤が開会を宣言し、長谷川如是閑が挨拶を始めた。
「われわれはあくまで唯物論の学問的研究をやろうとするもので、なんら政治的活動をするとか、特定の政治的目的
をもっているのでない」「ちかごろは観念論とか精神主義とかいう立場のほうがむしろ逆に特定の政治的色彩を
もっている ・・・・ 」。そう言ったとたん、壇上左に制服姿で座っていた本富士警察署長が、股の間に立てて
いた佩剣(はいけん)でガシャリと床をたたきながら「中止!」と叫んだ。すると同時に、どこにそんなにいたのか
と思わせる大勢の警官たちが、会場のあちこちにすっくと立ち上がって会衆を睨み付けると、署長が演壇に進み出て
長谷川を退かせ、「本集会の解散を命ず」と宣した。
開会早々のことで、皆あっけにとられながらも参加者が出口に向かうと、そこに私服の特高たちが待ちかまえていて、
警官を指揮しながら、「あの男、この男」と検束を始めた。
成城高校理科乙類1年の湯川和夫(1915.6生、法政大学教授)はスタコラ逃げたが、一高文科2年の丸山真男(1914.3
生、政治学者)は、マークされていたためか「あの男」の一人となり、3月に東大を卒業したばかりの唯研会員鳥井
博郎も、戸坂から頼まれて受付をしていた光成秀子も連行された。唯研発起人で講演予定者のひとり兼常清佐(1885.
11生、音楽評論家)が会場に着いた時は、すでに解散したあとであった。兼常は解散騒動に巻き込まれずに「助かった」
と思った。
解散理由がわからない戸坂は岡といっしょに本富士署に行ったが、理由を聞いても署長はハッキリしたことを言わない。
仕方なく特高室に行ってみると、検束された丸山たち若い連中が戸坂を見て苦笑いを返してきた。けっきょく要領を
えないまま本富士署を出たが、憤懣・憤怒はおさまらなかった。路地裏の屋台に入り、シャコ天で空きっ腹を満たして
ようやく鬱憤をはらした。
翌日の『東京朝日新聞』は「唯物論研究会解散さる 昨夜本郷で」との見出しで、「文学士島田佳男(24)(仮名)
他4名、内婦人1名が検束された」と報じた。
翌月の『唯物論研究』第7号(33年5月)に講演会を企画した企画部の声明が出た。会員の動揺を抑えたいとの思いから
であった。「解散命令を受けたことは甚だ遺憾であった。当夜の講師および会衆諸君には思わぬご迷惑をかけた。猶、
都下の2、3の新聞に出ていた記事には多少誤りがあったことを附記して置かなければならぬ。解散は全く当局の誤解に
基づくもので、当会はあくまで創立当時の方針に従って来たもので、其他何等質的変化をしていないのであるから、
当局の今回の処置は諒解に苦しむところである。」誤解一掃の努力中だから「安心されたし」としたうえで、「再び
近い中に、講演会又はそれに準じたものを開催する予定である。この際、会員諸氏の一層の支持をお願ひする」と
結ばれていた。
しかしこの事件をきっかけに「唯研は左翼文化団体」との印象が広まり、小泉丹、寺田寅彦などの学会・論壇の有名人
たちが退会していった。
岡と戸坂は、退会の意思を伝えてきた寺田寅彦を訪ねた。寺田は「銀座通りに狼や虎が出る時世になった。そう散歩
にも出られない」と言った。寺田邸を辞去した岡は「ああいう人にとっては、唯研入会も『散歩』に過ぎないのか」
と落胆したが、何事にも動じることのない戸坂も、今回ばかりはウップンやるかたなく、「飲もう」と言い出して
新宿帝都座地下のモナミに入った。下戸の岡だが、この日ばかりは戸坂の心中を察して一杯50銭のジョッキを
いっしょに傾けたが、全くうまいものではなく苦さだけがいつまでも残った。
唯研の設立趣旨をもっと世間にアピールし「詰まらぬ誤解」を一掃する必要があった。さっそく岡邦雄が
アカディミズムを打ち破ろうとする唯研の目的と精神を、福沢諭吉の実学精神に模して『学問のすゝめ』という30頁
のパンフレットに仕上げた。岡自身が「戯作」と呼ぶこのパンフレットは「日本神話」に関する一頁の削除を命ぜ
られたが、『唯物論研究』第9号(7月号)の別冊付録として発行され、読者の好評を博した。ちょうど『唯物論研究』
が自前発行になったばかりで、その宣伝材料として秋には改訂増刷し「送料2銭」のみで会員・維持員拡大に活用
された。」(P.90~P.93)
戸坂潤が唯物論研究会の創立・活動経過等について説明した文章、を紹介しています。「東京地方裁判所検事局」宛に出した
報告書に基づいているようです。
「戸坂はこれ以上の取締強化による会員減を防止しようと、翌35年1月、東京地方裁判所検事局宛に「唯物論研究会に
就て」(『戸坂潤全集』別巻、所収)を提出し、唯研創立の意図、創立後の活動経過を説明した。
・・・・ 唯研が「コップ特にプロレタリア科学研究の事実上の壊滅直後に創立せられたという偶然の事実からして、
何か左翼組織の一層外郭に在ってそれに代行するものではないかという風な憶測」が行われたが、「左翼団体との
関連があってはその(専門家の)糾合も不可能」で、構成メンバーは「専門家」としての共通点だけで、組織的に
研究方針を与えることもなく、また「左翼的傾向に対して有っている政治的関心も区々である」。毎年2、3の会員が
研究会の以外の件で検束され、会に有害な影響を及ぼしたのは遺憾だが、それは会員個人の事情によるもので、
「会としては不可抗の現象であった」 ・・・・ 。
その上で戸坂は、創立以来の研究組織の改組経過、毎大会選出の幹事名、財政上の困難なども事実に基づいて記載し、
昨秋の所轄特高の会員歴訪によって多数の退会者が出たことに触れ、「本会としては非常に打撃ではあるが、かかる
衝撃を受け易い層に会員を求める他なき本会としては、これ又不可抗の現象なのである」。いま研究会活動は整理
縮小の一途で、唯研は「社会情勢からの制限を受けて漸く現状を保持しているだけの状態」だが、「アカデミックな
学会と並行して吾々自由研究家によって組織される総合的な科学の学会が是非とも必要なのである」として、その
矜持と決意を次のように述べた。
「本会は一学科、一大学に限られない、一個の民衆的学術団体である。反覆強調したように之は何等政治的色彩・
傾向を有たないし、又もってはならない。吾々の研究すべき唯物論中の一つ、例えばマルクス主義は、なる程明かに
政治的実践を重んずる。併しだからと云って吾々唯物論研究家が各自の研究を政治的実践に結びつけねばならぬと
いう必然性を一向に有たないことは理の当然である」。実際問題、われわれは家族を有する市民であり、吾々の研究
目的を達成するためには「言葉の十全な意味で市民権を完全に保障されなければならぬ。ここに吾々の『政治的』
限界横たわるのである」「吾々は幾多の誤解に曝されつつ、生活を脅かされつつ、而も窮屈、困難、不自由なる唯物論
研究の為に一生を捧げる決心を有つ」のは、「他でもない。ギリシャの昔から哲学は帰するところ、観念論と唯物論
との二派に分かれるのであるが、処が今日世間の抱く興味は殆ど尽く観念論の側に傾いていて、唯物論固有の真理は
著しく無視・誤解されている」。
インテリ層に於ける「宗教復興」、庶民の淫祠邪教の流行、政府はそれらに乗って「一種の思想統制を行おうとさえ
しているかに窮知せられる。しかし若し人間の有つべき基礎的な世界観が、何等の公正な研究をまたずに無批判に
取り入れられ、又更にそれを基礎として強力的に単一化され了(おわ)るならば、人類の理性と惰性とを進歩せしめる
動力は事実上全く失われることは火を睹(み)るよりも瞭(あき)らかである。吾々はこの二つの思想・世界観の対立
に於て初めて双方の思潮の価値を科学的に知り得るものであり、そしてかかる比較研究の立場の正しさは古来の思想史
の検討によって確認せられていると信ずる。コレが本会の建前である。」。吾々はこうした確信の下で、「唯物論の
研究」に従っている。
大部分の者は自由なる立場で、また本会に所属する少数の唯物論者も本会のこの立場で一致協力している。会員は
「みな篤学・熱心の徒であり、漸次充実した研究を進めようとしている。本年はおそらく本会にとって意義ある発展と
充実の一年であろうと期待している」(『戸坂潤全集』別巻、311-318ページ)。
戸坂は時代に抗しつつ、新たな決意で唯研の運営にあたろうとしていた。 ・・・・ あらゆる事柄に唯物論的批判の
メスを入れ、その本質をあばかなけらばならない ・・・・ 。困難は戸坂の思想を一層強めた。」(P.112~P.115)
最後に、若干長いですが、「戸坂の最期」の記述を引用します。
「戸坂は既決囚の赤い服を着せられ、二舎一階48房に入れられた。47房にはゾルゲ事件のマックス・クラウゼン、50房
には宮本顕治が居り、翌10月には京浜労働者グループの吉田寿生が46房に入ってきた。
戸坂下獄の2ヶ月後、ゾルゲ事件の11房尾崎秀実の死刑が執行された。1944年11月7日、ロシア革命記念日であった。
その日の朝、尾崎は英子夫人に葉書を書いた。娘楊子を気遣ったあと、「近来警報頗る頻々、ますます元気で内外の
情勢に敢然対処すること祈ってやみません。寒さも段々加わって来ます。今年は薪炭も一層不足で寒いことでせう。
僕も勇を鼓して更に寒気と闘ふつもりでゐます。栄子殿」と結んだ。その直後尾崎は独房から出されて、絞首刑に
付された。
吉田寿生が床屋で戸坂と一緒になった。戸坂は「5等食ではやっていけないので疥癬に罹っているのを隠して(食事が
増える)請願作業をやっている」と言った。当局は疥癬の伝染を恐れて疥癬患者には請願作業を許さないのだが、
戸坂は体力維持のためにあえて偽りを言って請願作業に就いていた。
岡邦雄が所内の床屋で偶然戸坂と一緒になった。その時は碌に話はできなかったが、戸坂に持ち前の明るさがなく、
血色も悪く、しかも痩せて見えるのが気になった。「そのうち話す機会もあるだろう」、そう思ったが、岡は
まもなく中野の豊多摩刑務所に押送されその機会を永遠に失った。
翌45年2月、もはや敗戦は避けられないと判断した近衛文麿は、早期に和平をはかるよう天皇(裕仁)に上層したが、
天皇はもう一度敵をたたいてからとこれを拒否し、戦争継続をあえて選んだ。すでに米英ソ三首脳がクリミア半島の
ヤルタで会談を開き、ソ連参戦や戦後処理が話し合われていた。3月になって硫黄島で日本軍守備隊2万人が全滅し、
10日早暁にはB29 334機が東京東部を無差別に空襲し、一晩で26万人の家屋を焼き尽くし10万人を殺戮した。米軍は
3月の慶良間諸島への襲撃のあと、4月になって沖縄本島への上陸を開始した。
空襲が激しくなると、看守は短時間で入浴監視をすませようと、囚人二人を一度に浴室に入れるようになった。
ある日戸坂は、中島飛行機工場の旋盤工で戦争批判をやってつかまったという49房の若い男(箱崎満寿雄)と一緒に
なった。互いに痩せこけ肋骨さえ顕になっていた。その頃は荷札に針金を通す請願作業さえなくなって食事はさらに
粗末になり、戸坂の疥癬は一層ひどくなっていた。全身の皮膚はただれて白く変色しているうえに、血が黒く凝結
したような斑点さえいくつも浮かび上がっていた。
入浴時の会話は禁止されていたが、戸坂は若い男の話を聞き終わると、湯の中で固く手を握り、小声で「君は若い
から頑張ってくれよ」と励ました。箱崎が「失礼ですが、どなたでしょうか?」と頭をさげて聞くと「戸坂だよ」
とかすかな声で言った。「まさか唯研の戸坂さんが」と思ったとたん、「こやつらぁ!いつまでグズグズ入って
いるんだ」と怒鳴られ、浴室の扉が開いた。やむなく急いで獄衣をまとい廊下に出てから、戸坂はよろよろと歩いて
48房に戻った。箱崎には戸坂が大分弱っているように見えた。
空襲が激しくなる一方で、もはや東京近辺も安泰ではなかった。空襲時の脱獄などの混乱をさけるため、受刑者の
地方移監が始まった。豊多摩刑務所の岡邦雄と伊豆公夫は仙台の宮城刑務所に送られ、戸坂は5月になって巣鴨の
東京拘置所から長野刑務所に移された。
春の雨が房内を暗く湿らせていた朝、その日の朝食がすむと、となりの48房から看守の言いつけるような声が聞こ
えた。箱崎が何事かと監視の小窓から覗くと、青い獄衣のまま編笠姿に腰縄をかけられて、二人の看守に引き出さ
れる戸坂が見えた。押送だ!と直感すると、急に不安と哀惜の念がこみ上げてきた。あの病み果てた姿でどこに
送られるのか ・・・・ 、箱崎は監視窓の金網をつかんだ。「戸坂さん、どうかご無事で ・・・・ われら
死すとも 赤旗を 掲げ進むを 誓う」、そう思うと涙があふれた。
戸坂にとって、長野はなじみのない土地ではなかった。開成中学時代に渡辺進と連だって和田峠を越え、諏訪から
丸子への紅葉や新緑を楽しんだ土地であり、海(国民学校5年)と月子(同3年)の学童疎開先でもあった。
・・・・ 冬は寒かろうが、長野なら空襲の心配はまずない。あと半年もすれば戦争は止み、解放の時がくる
だろう。問題は食事と運動、健康だけだ ・・・・ 。車窓から見る信濃の山河は、往時の追憶と未来への思いを
鮮やかにした。
欧州戦線では、4月にソ連赤軍がベルリンを陥落し、三木清の予言通りヒトラーが自殺、5月7日ついにドイツが
無条件降伏し、欧州での戦争が終わった。米英ソなど連合国軍にとって残るのは、天皇を戴く「大日本帝国」だけ
となった。しかし御前会議は6月8日、「本土決戦・一億玉砕」を決定した。その結果、8月6日広島そして9日長崎
に、「新型爆弾」が落とされた。
8月10日、鷺宮に住む壺井繁治が突然古在のもとにやってきて、戸坂潤の獄死を伝えた。古在には敗戦の予想は
できても、戸坂獄死は全く考えられなかった。戸坂のひいでた眉、いきいきした目、酒も菓子も平らげる健啖ぶり。
一緒に泳ぎ、スキーを楽しんだスポーツマンの姿。現実の条件のなかで自己の思想を堅持し、決して不必要な退却
をしなかった戸坂。理論家、啓蒙家だけでなく、組織者として弾圧の嵐のなかを漕ぎ進む「名船長戸坂」。その
戸坂の獄死を信じることはできなかった。いや、信じたくなかった。しかし壺井は、イク夫人が阿佐ヶ谷の新島繁
に知らせに来たのだから間違いない、と言った。敗戦後こそ期待される戸坂が、敗戦を目の前にして死んだ ・・。
古在は哀惜の思いと同時に、凶暴な権力への激しい怒りを覚えた。
敗戦情報入手のため駆け回っていた松本慎一が、戸坂の死を知ったのは8月12日であった。夜遅く帰宅すると、
留守居の婆さんが、昨日伊藤佳郎さんという人が来て、9日に戸坂さんが長野の「疎開先」で急死した、と伝えた。
松本は翌日阿佐ヶ谷の戸坂の家を訪れ、賢母と評判の80歳ちかい久仁子に会った。すでにイク夫人は長野に発って
いた。
9日昼頃、「キトク」の電報があり、その30分後に「シス」の電報が追いかけて来た、その電報で荼毘にするか
どうか訊いてきたので、真夏の腐食が心配で荼毘を頼むと返電した、ようやく長野行きの切符がとれて今日イクが
渡辺進さんと出発した、と老母は言った。
間違いなかった。戸坂が予見し待望していた「自由の黎明」がすぐにも訪れようとしているのに ・・・・ 。
空襲のため列車は遅れたが14日朝、イクと渡辺進は長野刑務所に着いた。刑務所の前庭の草木は真夏の光に汗ばみ、
蝉しぐれが辺りを妙にむなしく静まらせていた。イクと渡辺はひからびた応接室でしばらく待たされ、やがて戸坂の
粗末な骨壷を抱いた。
死因は栄養失調と疥癬による急性腎臓炎との説明であったが、イクにはその説明が信じられなかった。一月前長野に
足を運んで面会したとき戸坂は元気そうで、敗戦で出獄したら長野の山を歩いて帰郷するからと、現金と登山用の
服をイクに頼んでいた。そんなひと(戸坂)が急死するものだろうか?そう思いつつイクは、その足で小県
(ちいさがた)郡長久保新町にまわり、海と月子の疎開先のお寺で、悲しむ二人の肩を抱きよせ、一緒に泣き、
供養した。
古在は戸坂の死を悼みながら、8月13日の昼、東京駅から京都に向かった。家族は疎開先を長者町から京都に移して
いた。京都に着いた8月14日、日本政府がようやく「ポツダム宣言」を受諾した。すぐに戦争が終わることも知らずに、
京都駅周辺ではまだ強制疎開の最中で、家の柱に綱を架け汗みどろで自分の家を引き倒していた。日野の実家に
着くと、上の娘二人が栄養失調のため青ぶくれした顔で迎え、美代は懸命に防空壕を掘っていた。古在は後ろから
美代の肩をたたき、「戦争はおわったよ」と言った。美代はあっけに取られたような表情を見せたが、すぐ事態を
悟った。
翌8月15日、古在は家族と共に、降伏をつげる天皇の声をラジオで聞いた。
岡邦雄は8月末、宮城刑務所に届いたセツの手紙で戸坂の死を知った。受刑者と一緒に板敷に一列になって縄をなって
いる時であった。 ・・・・ ウソではあるまい。戸坂が期待した日が現実に来たのに、何ということか ・・・・ 。
深い悲しみが岡を襲った。同じ作業場にいた伊豆公夫も戸坂の死を聞いて愕然とした。岡はほかの受刑者には
背を向け、ワラ屑だらけの手で両目を押さえた。」(P.223~P.228)
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ある戦時下の抵抗 哲学者・戸坂潤と「唯研」の仲間たち 単行本 – 2015/8/22
岩倉 博
(著)
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購入オプションとあわせ買い
敗戦、そして戸坂獄死から70年
戦争とファシズムの足音が再び聞こえるなかで
1930年代、反戦運動が特高警察に根こそぎ弾圧されていくなかで、
6年内にわたってしたたかに抵抗を続けた、世界に例のない文化組織「唯物論研究会」。
戸坂潤をはじめ、この唯研に集う若き知識人たちは、ファシズムが吹き荒れる下でも、
人生を楽しみ、仲間と交わり、好戦イデオロギーに抗い続け、のちに戦後の民主主義運動の芽となっていった。
戦争とファシズムの足音が再び聞こえるなかで
1930年代、反戦運動が特高警察に根こそぎ弾圧されていくなかで、
6年内にわたってしたたかに抵抗を続けた、世界に例のない文化組織「唯物論研究会」。
戸坂潤をはじめ、この唯研に集う若き知識人たちは、ファシズムが吹き荒れる下でも、
人生を楽しみ、仲間と交わり、好戦イデオロギーに抗い続け、のちに戦後の民主主義運動の芽となっていった。
- 本の長さ250ページ
- 言語日本語
- 出版社花伝社
- 発売日2015/8/22
- ISBN-104763407503
- ISBN-13978-4763407504
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商品の説明
著者について
岩倉博(いわくらひろし)
1947年、宮城県角田市生まれ。1970年、福島大学経済学部卒業。
鋼鉄業、印刷業の事業所に勤務し、労働組合の活動に従事。
08年まで東京地方労働組合評議会(東京地評)書記。
1988年から私家版冊子『でくのぺん』を執筆・刊行。山梨県北杜市在住。
著書『ある哲学者の軌跡――古在由重と仲間たち』花伝社、2013年。
『異評 司馬遼太郎』草の根出版会、2006年。
編著『陽光きらめいて——民主経営労組40年のあゆみ』光陽出版社、1992年
『国際労働基準で日本を変える——ILO活用ガイドブック』大月書店、1998年
1947年、宮城県角田市生まれ。1970年、福島大学経済学部卒業。
鋼鉄業、印刷業の事業所に勤務し、労働組合の活動に従事。
08年まで東京地方労働組合評議会(東京地評)書記。
1988年から私家版冊子『でくのぺん』を執筆・刊行。山梨県北杜市在住。
著書『ある哲学者の軌跡――古在由重と仲間たち』花伝社、2013年。
『異評 司馬遼太郎』草の根出版会、2006年。
編著『陽光きらめいて——民主経営労組40年のあゆみ』光陽出版社、1992年
『国際労働基準で日本を変える——ILO活用ガイドブック』大月書店、1998年
登録情報
- 出版社 : 花伝社 (2015/8/22)
- 発売日 : 2015/8/22
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 250ページ
- ISBN-10 : 4763407503
- ISBN-13 : 978-4763407504
- Amazon 売れ筋ランキング: - 220,753位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 304位形而上学・存在論
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2015年12月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2017年10月4日に日本でレビュー済み
1930年代から太平洋戦争の戦時下、文化面での抵抗の象徴とも言える「唯物論研究会」(唯研)。本書はその中心人物である戸坂潤と彼を取り巻く人々について描いたもの。戸坂潤の名前は以前から知っているが、その著作を読んだことはない。
戦前の政治的弾圧といっても共産党を含む左翼運動が実質的に崩壊した後、特別高等警察などのターゲットになったのは、自由主義者や民主主義者であったことが、本書を読んでいくとよく分かる。思想を単に学問的に研究することさえ弾圧される恐ろしさが伝わってくる。そういった状況の中でも、精一杯の抵抗精神を示した唯研のメンバーには頭が下がる。
本書から教訓を導き出すとすると、ある段階まで思想統制が進んでしまうと、わずかな振り幅さえ許されなくなるので、統制とは早い段階で闘う必要があるということ。そして、ここでもマルティン・ニーメラーの警鐘が蘇ってくる。
戸坂潤、三木清の獄死は極めて残念だし、彼らを死に追いやった日本の思想司法には怒りを覚える。しかし、彼らの地道な活動は戦後の民主主義に受け継がれていることも間違いない。
戦前の政治的弾圧といっても共産党を含む左翼運動が実質的に崩壊した後、特別高等警察などのターゲットになったのは、自由主義者や民主主義者であったことが、本書を読んでいくとよく分かる。思想を単に学問的に研究することさえ弾圧される恐ろしさが伝わってくる。そういった状況の中でも、精一杯の抵抗精神を示した唯研のメンバーには頭が下がる。
本書から教訓を導き出すとすると、ある段階まで思想統制が進んでしまうと、わずかな振り幅さえ許されなくなるので、統制とは早い段階で闘う必要があるということ。そして、ここでもマルティン・ニーメラーの警鐘が蘇ってくる。
戸坂潤、三木清の獄死は極めて残念だし、彼らを死に追いやった日本の思想司法には怒りを覚える。しかし、彼らの地道な活動は戦後の民主主義に受け継がれていることも間違いない。
2020年6月11日に日本でレビュー済み
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久しぶりに戸坂潤に会えました。
2019年2月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
日本が世界に誇りうる数少ない実線的唯物論哲学者.戸坂潤の足跡を忠実に描く名著。
2022年10月15日に日本でレビュー済み
本書が、10年前に刊行されていたら、わたしは、個人的には随分助かったのでした。『唯物論研究』の内容をにらみながら、戦前・戦中・戦後の教育学界の変動を雑誌『教育』の位置づけを明確にしながら記述する必要があったからです。
でも、読めて良かったです。
でも、読めて良かったです。