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ロード・ジム (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集) 単行本 – 2011/3/11
ジョゼフ・コンラッド
(著),
柴田 元幸
(翻訳)
ジムは船長番として、誰からも厚い信頼を得て仕事に励んでいた。しかし彼には隠された恐ろしい過去があった──かつて老朽船パトナ号の一等航海士だったジムは、800人の巡礼を乗せて航海中、嵐に遭って遭難する。船長らの誘いのままに、船や乗客を見捨てて救命ボートで脱出したジムは、審判の結果、航海士の免許を剥奪され、過去を隠して東南アジアの港を渡り歩くことに──海洋小説の名作を新訳で。
〈ぼくがこの作品を選んだ理由 池澤夏樹〉
成功するのはそうむずかしいことではないが、失敗からの回復は容易でない。とりわけ、世間のみなから軽蔑され、自分でも自分を軽蔑しなければならないような道義的な失敗の場合は。卑怯者に栄光はあるか? これは最も現代的な古典であり名作である。
〈ぼくがこの作品を選んだ理由 池澤夏樹〉
成功するのはそうむずかしいことではないが、失敗からの回復は容易でない。とりわけ、世間のみなから軽蔑され、自分でも自分を軽蔑しなければならないような道義的な失敗の場合は。卑怯者に栄光はあるか? これは最も現代的な古典であり名作である。
- ISBN-104309709672
- ISBN-13978-4309709673
- 出版社河出書房新社
- 発売日2011/3/11
- 言語日本語
- 本の長さ480ページ
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商品の説明
著者について
1857-1924。ロシア領ポーランド生まれ。16歳でフランス船の船員となる。その後イギリス船に移り28歳でイギリスに帰化。『オルメイヤーの阿房宮』『闇の奥』『ノストローモ』『西欧人の眼に』他。
登録情報
- 出版社 : 河出書房新社 (2011/3/11)
- 発売日 : 2011/3/11
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 480ページ
- ISBN-10 : 4309709672
- ISBN-13 : 978-4309709673
- Amazon 売れ筋ランキング: - 574,382位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 7,726位英米文学
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2021年11月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
面白そうな小説でしたが、面白いと感じられず、5%ほど読んだところで挫折しました。元船乗りの話です。
2011年10月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「冒険海洋小説」の名の通り、まさに世界各地の海で冒険が繰り広げられる。
アラビアの沖で船が沈没し、アジアの港町を渡り歩き、ジャングル奥地の戦争を指揮し、部族の美しい姫と結ばれる・・・・とあらすじを書くと王道のリウッド映画のようだし、ディズニーアニメにもありそうな、ベタな冒険活劇。ただ、決定的に違うのは、「ジムはすべての人類の中で自分自身としかかかわりを持たなかった」という文章が象徴しているように、主人公ジムの闘う相手は常に自分であるということ。荒れ狂う嵐や、襲いかかる海賊が目前なのに、いつも自分の良心と闘っているのである。まさにこれは世界を股にかけた個人の心の葛藤の物語。この舞台のスケールの大きさとスケールの小ささのギャップが『ロード・ジム』が名作たる所以ではなかろうか。闘う相手が嵐や海賊だったならば、よくある海洋小説として歴史の藻屑へと消えているはず。
語り手はジムを「受け身の英雄」だという。自ら世界を切り開いていく能動的な英雄ではない。が、何か危機が生じた時には必ず英雄的行動をとるはず、という受け身の英雄。ぼくたちもそう。自分のことを心のどこかで「英雄」だと思っている。何かあれば英雄的行動をとるはずだ、それだけの精神を持ち合わせているはずだ、と。そんなぼくたちに、3.11と、放射能汚染という危機がやってきた。果たしてぼくたちは英雄的行動をとれたのか。いや、ほとんどの人がとれなかったはずだ。ぼくたちは、英雄ではない、そう、ぼくたちは、ジムとそう変わらない。
アラビアの沖で船が沈没し、アジアの港町を渡り歩き、ジャングル奥地の戦争を指揮し、部族の美しい姫と結ばれる・・・・とあらすじを書くと王道のリウッド映画のようだし、ディズニーアニメにもありそうな、ベタな冒険活劇。ただ、決定的に違うのは、「ジムはすべての人類の中で自分自身としかかかわりを持たなかった」という文章が象徴しているように、主人公ジムの闘う相手は常に自分であるということ。荒れ狂う嵐や、襲いかかる海賊が目前なのに、いつも自分の良心と闘っているのである。まさにこれは世界を股にかけた個人の心の葛藤の物語。この舞台のスケールの大きさとスケールの小ささのギャップが『ロード・ジム』が名作たる所以ではなかろうか。闘う相手が嵐や海賊だったならば、よくある海洋小説として歴史の藻屑へと消えているはず。
語り手はジムを「受け身の英雄」だという。自ら世界を切り開いていく能動的な英雄ではない。が、何か危機が生じた時には必ず英雄的行動をとるはず、という受け身の英雄。ぼくたちもそう。自分のことを心のどこかで「英雄」だと思っている。何かあれば英雄的行動をとるはずだ、それだけの精神を持ち合わせているはずだ、と。そんなぼくたちに、3.11と、放射能汚染という危機がやってきた。果たしてぼくたちは英雄的行動をとれたのか。いや、ほとんどの人がとれなかったはずだ。ぼくたちは、英雄ではない、そう、ぼくたちは、ジムとそう変わらない。
2016年10月9日に日本でレビュー済み
主人公は水夫。
ある日、乗船していた客船が転覆する。
水夫は、船長にいわれるままに、乗客よりもさきに救命ボートで逃げてしまう。
なんとか命はたすかったものの、裁判により「責任放棄」と弾劾される。
結果、彼はそれまで住んでいた社会からはじきだされて未開の南の島にたどりつく。
その地での彼は、逃げ出してしまったじぶんを悔いながら 第二の人生を歩んでいくんだけど、
そのうち島民から英雄あつかいを受けるようになるのね。
ところが、その未開の地をねらって大国が侵略してくる。
そこでジムは「今度こそ逃げない!」と誓うわけ。
結果、彼は英雄として死んでいく。
生まれつき気高い魂を持ってたわけではない主人公が、自省して、
おなじあやまちをくりかえさないという物語に俺はすごく有機づけられた。
~p122 「しごとのはなし」by太田光(爆笑問題)より
・・・・・・・・ふーむ、ここまで上手くあらましをまとめれるんだなあ。。つか、あらすじの要約にその人のすべてが現れるなあ。。
ある日、乗船していた客船が転覆する。
水夫は、船長にいわれるままに、乗客よりもさきに救命ボートで逃げてしまう。
なんとか命はたすかったものの、裁判により「責任放棄」と弾劾される。
結果、彼はそれまで住んでいた社会からはじきだされて未開の南の島にたどりつく。
その地での彼は、逃げ出してしまったじぶんを悔いながら 第二の人生を歩んでいくんだけど、
そのうち島民から英雄あつかいを受けるようになるのね。
ところが、その未開の地をねらって大国が侵略してくる。
そこでジムは「今度こそ逃げない!」と誓うわけ。
結果、彼は英雄として死んでいく。
生まれつき気高い魂を持ってたわけではない主人公が、自省して、
おなじあやまちをくりかえさないという物語に俺はすごく有機づけられた。
~p122 「しごとのはなし」by太田光(爆笑問題)より
・・・・・・・・ふーむ、ここまで上手くあらましをまとめれるんだなあ。。つか、あらすじの要約にその人のすべてが現れるなあ。。
2015年8月6日に日本でレビュー済み
おおざっぱにいうと、小説前半は、海難事故をめぐって自責の念に苦しむ主人公ジムの心の「闇の奥」にある煩悶と苦悩、後半はみずからの魂の蘇生をはかるべくとびこんだ(ヨーロッパからみれば)僻遠にあるアジア未開の土地の「闇の奥」でのジムの栄光と悲劇がこの物語の主筋となっています。
小説前半のジムの心の「闇の奥」を延々と、また精細にたどる部分は、語りが暗示的でかつ錯雑としており、コンラッド(1857‐1924)の、同じくマーロウが語り手となる小説『闇の奥』(1899年)でもそうでしたが、主人公の苦悩と煩悶には、言葉にはできないような,人間の魂にかかわる怖ろしく深遠なものがあるんだぞ、といわんばかりの、読者をくつろがせぬ、重苦しい文章がこれでもかこれでもかとつづきます。そのうえさらに話がいっこうに進展していかないため、読むのにちょっとしんどいところがあります。
いっぽう小説後半になって、ようやく冒険活劇映画を思わせるような展開となり、小説の進行は,西洋人と現地人とのあいだに生まれた混血の少女との高潔なロマンスもからめて、徐々に最後のクライマックスへとサスペンスフルに高まっていきます。
ただ、そこには西洋人が未開の地の原住民や風習を描くときによくみられるある種の驚異と畏怖と恐怖、それに異国趣味(エキゾティシズム)をないまぜにしたような視点も感じられ、まあ小説が書かれた当時とすればこんなものかなと思われます。
アジアの未開の奥地で、現地人からなにか不思議な神通力をもつ白人の英雄とまつりあげられていた主人公は、最後(状況の判断ミスから結果的に)その力を失った裏切り者となって死へといたらしめられます。
主人公は誤解からであれ墜ちた偶像となって「未開人」(アジア人)に殺されるわけですが、こうして「未開人」(アジア人)による、説明のない(無言の)、不可解また理不尽ともみえる、厳粛にして不気味な(東洋的神秘!)一種の処刑が最後執行されるのにあわせて、同時にそこに、「文明人」(西洋人)の、言いわけをせず(無言の)、みずからの死を従容として受けいれる悲劇的なヒロイズムが対比されるように粛然とせりあがってきます。
(たとえばある時期までのアメリカ西部劇では、そこに登場する先住民の内面が描かれることはなかったのと同様、この小説でも登場するアジア人が何を考えているのかその内面が描かれてはいないというところにコンラッドが、あるいはコンラッドでさえなお抜けきれなかった植民地主義者的な側面を見ることもできるかもしれません)
いや、そこにあらわれる主人公は、みずからのミスにたいして他者からの処決を抗弁せず受けいれ、みずからの死に潔さをみせる気高く雄々しいヒーローのようには必ずしも見えません。
海難事故で自分のとった行動への深い悔悟ゆえに、長く、愛であれ勇気であれもはや何にも価値を見いだせず、それでも生きる意味をもとめ、もがきつづけたはてに、今回みずからなした判断ミスへの処罰を受けることで、過去に犯したあやまちをようやくここに贖える、そんな絶好の機会として、みずから進んでの、いわば自裁にもちかい死で死んでゆく主人公の姿がそこにあるように思えます。
そういう意味で、死を従容として受けいれる、主人公のまとう一見そうみえるヒロイックな悲劇性は、別の見方をすれば、海難事故でかつて乗客を見すてたみずからの罪を、ほかならぬみずからの死でもってつぐなうべく、ついに自分なりに納得できる恰好の死に場所、つまりは安住と休息をようやくここに見つけた、というたぐいの、どこまでも自己完結的で、あえていえば自己中心的なもののようにみえてこなくもありません。
状況の判断ミスについては自己弁護の余地もあったはずなのに信頼回復もせず、またあとに残される年若い妻のことも顧みず(ただ好適の死に場所さえあればいつ死んでもいいという気持ちをもつ主人公には彼女を正式な妻にはできなかったのでしょう)、ある意味自分勝手にあっさり死を受けいれてしまっているというわけです。
ところで、未開人(非-白人)を率い、救う英雄的白人、文化理論で「白い救世主( white savior)」と呼ばれたりもする定型的な白人表象、あるいは未開(人)の地での「文明人」(白人・西洋人)の悲劇的なヒロイズムなるものは、いまでもあいかわらず欧米の映画のお気に入りのテーマのようにもみえます。
トム・クルーズ主演の『ラスト サムライ』(2003年)がまさにそうでしょうし、西洋人の侵略と略奪にさらされる18世紀南米の密林の奥地を舞台に、原住民インディオの土地にとびこんだ白人宣教師がやはり悲劇的なヒロイズムをみせて死にむかう、ロバート・デニーロ、ジェレミー・アイアンズ主演の『ミッション』(1986年)という映画なんかも評者はちょっと想い出しました。
また、複数の語り手の記憶に残された死せる人物を、ほかならぬそれら複数の語り手の語りによって光と翳に彩られた英雄(あるいは非英雄)へと神話化・伝説化すること、もうすこし精確にいうと、複数の語り手によるその語り(証言)の間接性および重層性をとおして、鮮明なイメージを結ぶというより、かえってむしろその謎を深め、いっそうの神秘的な霧ないしは神話的なオーラにつつまれた人物たらしめること──コンラッドの小説を特徴づけるこの語りの手法は、おそらくフォークナーなどにも影響をあたえたのではないかと思うのですが、どうでしょうか。
『ロード・ジム』は1900年刊。
小説前半のジムの心の「闇の奥」を延々と、また精細にたどる部分は、語りが暗示的でかつ錯雑としており、コンラッド(1857‐1924)の、同じくマーロウが語り手となる小説『闇の奥』(1899年)でもそうでしたが、主人公の苦悩と煩悶には、言葉にはできないような,人間の魂にかかわる怖ろしく深遠なものがあるんだぞ、といわんばかりの、読者をくつろがせぬ、重苦しい文章がこれでもかこれでもかとつづきます。そのうえさらに話がいっこうに進展していかないため、読むのにちょっとしんどいところがあります。
いっぽう小説後半になって、ようやく冒険活劇映画を思わせるような展開となり、小説の進行は,西洋人と現地人とのあいだに生まれた混血の少女との高潔なロマンスもからめて、徐々に最後のクライマックスへとサスペンスフルに高まっていきます。
ただ、そこには西洋人が未開の地の原住民や風習を描くときによくみられるある種の驚異と畏怖と恐怖、それに異国趣味(エキゾティシズム)をないまぜにしたような視点も感じられ、まあ小説が書かれた当時とすればこんなものかなと思われます。
アジアの未開の奥地で、現地人からなにか不思議な神通力をもつ白人の英雄とまつりあげられていた主人公は、最後(状況の判断ミスから結果的に)その力を失った裏切り者となって死へといたらしめられます。
主人公は誤解からであれ墜ちた偶像となって「未開人」(アジア人)に殺されるわけですが、こうして「未開人」(アジア人)による、説明のない(無言の)、不可解また理不尽ともみえる、厳粛にして不気味な(東洋的神秘!)一種の処刑が最後執行されるのにあわせて、同時にそこに、「文明人」(西洋人)の、言いわけをせず(無言の)、みずからの死を従容として受けいれる悲劇的なヒロイズムが対比されるように粛然とせりあがってきます。
(たとえばある時期までのアメリカ西部劇では、そこに登場する先住民の内面が描かれることはなかったのと同様、この小説でも登場するアジア人が何を考えているのかその内面が描かれてはいないというところにコンラッドが、あるいはコンラッドでさえなお抜けきれなかった植民地主義者的な側面を見ることもできるかもしれません)
いや、そこにあらわれる主人公は、みずからのミスにたいして他者からの処決を抗弁せず受けいれ、みずからの死に潔さをみせる気高く雄々しいヒーローのようには必ずしも見えません。
海難事故で自分のとった行動への深い悔悟ゆえに、長く、愛であれ勇気であれもはや何にも価値を見いだせず、それでも生きる意味をもとめ、もがきつづけたはてに、今回みずからなした判断ミスへの処罰を受けることで、過去に犯したあやまちをようやくここに贖える、そんな絶好の機会として、みずから進んでの、いわば自裁にもちかい死で死んでゆく主人公の姿がそこにあるように思えます。
そういう意味で、死を従容として受けいれる、主人公のまとう一見そうみえるヒロイックな悲劇性は、別の見方をすれば、海難事故でかつて乗客を見すてたみずからの罪を、ほかならぬみずからの死でもってつぐなうべく、ついに自分なりに納得できる恰好の死に場所、つまりは安住と休息をようやくここに見つけた、というたぐいの、どこまでも自己完結的で、あえていえば自己中心的なもののようにみえてこなくもありません。
状況の判断ミスについては自己弁護の余地もあったはずなのに信頼回復もせず、またあとに残される年若い妻のことも顧みず(ただ好適の死に場所さえあればいつ死んでもいいという気持ちをもつ主人公には彼女を正式な妻にはできなかったのでしょう)、ある意味自分勝手にあっさり死を受けいれてしまっているというわけです。
ところで、未開人(非-白人)を率い、救う英雄的白人、文化理論で「白い救世主( white savior)」と呼ばれたりもする定型的な白人表象、あるいは未開(人)の地での「文明人」(白人・西洋人)の悲劇的なヒロイズムなるものは、いまでもあいかわらず欧米の映画のお気に入りのテーマのようにもみえます。
トム・クルーズ主演の『ラスト サムライ』(2003年)がまさにそうでしょうし、西洋人の侵略と略奪にさらされる18世紀南米の密林の奥地を舞台に、原住民インディオの土地にとびこんだ白人宣教師がやはり悲劇的なヒロイズムをみせて死にむかう、ロバート・デニーロ、ジェレミー・アイアンズ主演の『ミッション』(1986年)という映画なんかも評者はちょっと想い出しました。
また、複数の語り手の記憶に残された死せる人物を、ほかならぬそれら複数の語り手の語りによって光と翳に彩られた英雄(あるいは非英雄)へと神話化・伝説化すること、もうすこし精確にいうと、複数の語り手によるその語り(証言)の間接性および重層性をとおして、鮮明なイメージを結ぶというより、かえってむしろその謎を深め、いっそうの神秘的な霧ないしは神話的なオーラにつつまれた人物たらしめること──コンラッドの小説を特徴づけるこの語りの手法は、おそらくフォークナーなどにも影響をあたえたのではないかと思うのですが、どうでしょうか。
『ロード・ジム』は1900年刊。
2012年7月8日に日本でレビュー済み
『闇の奥』と並ぶコンラッドの代表作であり、全45章、450頁(英語原文で13万語)にもなる長編だ。
物語は大きく三部に分かれる。パトナ号での事件と『飛び降りる』までの客観的記述、海事裁判とパトゥザンでの成功までを伝えるマーロウ氏の語り、ジムを襲ったパトゥザンでの事件の顛末を知らせる、友人に宛てたマーロウ氏の手紙から構成される。
物語中、ある男はジムを『理想主義者:ロマンチスト』と評する。まっすぐに人生に対峙し、あまりにも純粋に青年は生きてきたため、『こうあるべきだ』とする理想像と、現実の無惨な結果との乖離に苦しむ。ついには、思いがけずとった行動から人生を棒に振る。
誤ったとっさの判断が人生を狂わせることは往々にしてあることだが、『理想主義者』からすれば受容しがたいことだ。
文明社会を捨て去り、マーロウの知人に紹介されたジャワ島・現地マレー人集落で生き抜くことを決意したジムは、ようやく挫折から快復し、心の充足を実感する。流れ者の白人ヤクザを撃退し、支配者の信頼を得るとともに人心を掌握しただけでなく、混血娘の愛情も得ることが出来た。
順風満帆な人生。3年後に突如『やってきた』試練も、乗り越えられるはずだった……。
名誉を喪失した人生に生きる価値はあるか? その答をジムは知っていた。
ドイツ人、現地住民の駆使する"おかしな英語"も表現されて面白いが、これはコンラッド自身が英語の習得に苦労した経験から滲み出たものだろう。(解説によるとシェークスピアとディケンズ、それに船員仲間との会話によって独習しただけであり、大作家となってからも講演会を開くことはなかったと言う。)
本作は1900年にイギリスで発表された。すでに110年の時間を経過しているものの、内容はまったく陳腐化していない。ジムが苦悩を抱えて行動する様は、マーロウが語るように、まさに「(ジムは)われわれの一人」であり、現代日本人にとっても共通のものといえるだろう。
物語は大きく三部に分かれる。パトナ号での事件と『飛び降りる』までの客観的記述、海事裁判とパトゥザンでの成功までを伝えるマーロウ氏の語り、ジムを襲ったパトゥザンでの事件の顛末を知らせる、友人に宛てたマーロウ氏の手紙から構成される。
物語中、ある男はジムを『理想主義者:ロマンチスト』と評する。まっすぐに人生に対峙し、あまりにも純粋に青年は生きてきたため、『こうあるべきだ』とする理想像と、現実の無惨な結果との乖離に苦しむ。ついには、思いがけずとった行動から人生を棒に振る。
誤ったとっさの判断が人生を狂わせることは往々にしてあることだが、『理想主義者』からすれば受容しがたいことだ。
文明社会を捨て去り、マーロウの知人に紹介されたジャワ島・現地マレー人集落で生き抜くことを決意したジムは、ようやく挫折から快復し、心の充足を実感する。流れ者の白人ヤクザを撃退し、支配者の信頼を得るとともに人心を掌握しただけでなく、混血娘の愛情も得ることが出来た。
順風満帆な人生。3年後に突如『やってきた』試練も、乗り越えられるはずだった……。
名誉を喪失した人生に生きる価値はあるか? その答をジムは知っていた。
ドイツ人、現地住民の駆使する"おかしな英語"も表現されて面白いが、これはコンラッド自身が英語の習得に苦労した経験から滲み出たものだろう。(解説によるとシェークスピアとディケンズ、それに船員仲間との会話によって独習しただけであり、大作家となってからも講演会を開くことはなかったと言う。)
本作は1900年にイギリスで発表された。すでに110年の時間を経過しているものの、内容はまったく陳腐化していない。ジムが苦悩を抱えて行動する様は、マーロウが語るように、まさに「(ジムは)われわれの一人」であり、現代日本人にとっても共通のものといえるだろう。
2015年7月30日に日本でレビュー済み
「逃げちゃダメだ!逃げちゃダメだ!逃げちゃダメだ!」怯んで船を捨てた若き航海士の彷徨。
「彼は私達の一人なのだ」と暖かく見守る語り手マーロウ。あれっ?「長いお別れ」はこれが元ネタ?
回りくどくじれったいコンラッド独特の文体だけど「闇の奥」より分かりやすくストーリーもはっきりしてる。ピーター・オトゥール、伊丹十三出演の映画も観てみたいな。
「彼は私達の一人なのだ」と暖かく見守る語り手マーロウ。あれっ?「長いお別れ」はこれが元ネタ?
回りくどくじれったいコンラッド独特の文体だけど「闇の奥」より分かりやすくストーリーもはっきりしてる。ピーター・オトゥール、伊丹十三出演の映画も観てみたいな。