『中庸発揮』より学ぶ!伊藤仁斎が込めた「中」「徳」「情」「道」「権」への思いを読み解いてみよう!

江戸時代に朱子学を否定した儒教学の学派には、山鹿素行の「聖学」、伊藤仁斎の「古義学」、荻生徂徠の「古文辞学」などがあり、それを総称して「古学派」と呼びますが、そのひとり伊藤仁斎が自らの思想を著述した三本柱の一つ『中庸発揮』が、今回の整理の対象です。
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当時仁斎は、門弟3000人越とも伝わる「古義堂」を京都堀川に開塾し、
「宋学(朱子学)は学問体系的には整然と整えられているが、
 体系成立過程において孔子や孟子が説いた本来の教えではない、
 仏教の禅学や道家の老荘思想が混入し、儒家の経書の解釈に偏見がある」
として朱子学を批判しました。
室町時代から禅宗五山学が支配的地位を占めていた宋学(朱子学)の経典解釈を排除し、特に『大学』は孔子の遺著ではないと主張しながら、古の文献を検討し文献実証的態度で『論語』『孟子』『中庸』を検証・独自解釈し、「古義学」の三本柱として『論語古義』『孟子古義』『中庸発揮』を著したのです。
(これら以外にも仁斎は、『語孟字義』『童子問』『大学定本』『周易乾坤古義』『仁斎日札』などの書物を著しています)
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そもそも、『中庸』は五経の内の『礼記』の一篇に過ぎず、宋王朝以降、その価値が徐々に認められ、南宋の朱熹によって創始された朱子学では『論語』『孟子』『大学』に並び『中庸』が四書の1つに加えられるようになりました。
また江戸初期の日本でも、朱子学の熱心な信奉者であった後醍醐天皇の親政が行われた「建武の新政」期を挟む、四百年の程の時を隔てて朱子学が本格的に導入され、『中庸』の価値は揺るぎようのないものになっていたのです。
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それにも関わらず仁斎は、二十年以上の歳月を費やして『中庸発揮』に補正を施し、『論語』『孟子』の記述を元に『中庸』の記述が『論語』『孟子』に一致するかの徹底的検討を加えた上で、その一部分を除き、一致するとの結論に至り、『論語』『孟子』『中庸』を三書と名付けた訳なのです。

『中庸発揮』によれば、
「天の命ずる、をこれ性という。性にしたがう、をこれ道という」

「天によってもともと四つの道徳的素地が人に与えられている、これを性という。
 人のもつ人間関係や道徳性は性に従っている、これを道という」
と解釈しています。
仁斎が『中庸発揮』を上・下篇に分け、特に前半部分を本来の『中庸』本文として独立させたのも、そこに孔孟の意味血脉に合致した「中庸」の本義が説かれていると考えたからでしょう。
論・孟二書を自らの思想の源泉とした仁斎は、『論語』は「最上至極宇宙第一の書」とした究極のテキストであったのですが、「中庸」はその『論語』の「極致」であると捉え、極めて重要な意味を持つものと位置付けていたのです。

そのため『中庸発揮』では、「中庸」の「徳」を常に発揮することは聖人でも難しいが、学問をした人間にしか発揮できない存在でもなく、誰人も発揮することが出来るものの、「中庸」の説く「徳」は、いつも発揮することが難しいことから、「中庸」は儒教学の倫理的側面の行為の基準をなす最高概念であると解釈したのでした。
更に仁斎は、朱子が主張した理論を重んじる「理」の思想を批判し、人間味ある心情である「情」を思想の中核に据え、孔子の「忠信説」を発展させた孟子由来の「四端の心」や「性善説」を提唱したのでした。
仁斎は、生々変化することこそ世界の本質であり、「動」にこそ価値があり、性善とは「善」になる可能性があることを意味し、人間にとって最も大切なのは、学問と教育によって「善」の可能性を伸ばすこと、それが孟子の言う「拡充」であると説き、学問と教育の重要性を強調して実践したのです。
また「仁」についても、それを最高道徳の名称として思考する宋学に対して、「仁」は「愛」という実践行為に他ならないと説いたのでした。

また仁斎の「中庸」解釈の最も大きな特徴は、「中庸」と「中」とを分離したことにあるといえます。

仁斎にあって「中庸」は「過不及無うして、平等行う可きの道」、「中」は「事を処して当を得ること」と定義され、二者は截然と分かれています。
この解釈の独創性は、朱子学が「中庸」をほぼ全面的に「中」と同義なるものと捉えることと比較するとき顕著なものとして表れてきます。

朱子学では、「中なるものは不偏不倚、過不及無きの名。庸は平常なり」 と言い、「道統」の内実そのものであって、「中庸」は「道統」としての「中」とその意味内容を全く一にしています。
一方『中庸章句』では、「中」とは喜怒哀楽の情が未だ発動せず、従って天から与えられた性理が私欲に損なわれることなく、「偏らず倚らず」完全に天理に合致すること、即ち「未発」の「中」だと説いています。
仁斎にとって「中庸」とは、そのような「万世の標準」としての「堯舜の道」のあり方の孔子による自覚的把握なのであり、孔子によって初めて建てられた「道」なのです。
その意味で「中庸」は『論語』において初めて可能となった「道」把握なのであり、たとえ堯舜が「中」において「万世の標準」たる理想的な治世を実現していたとしても、彼らにおいてそれはいわば一種の偶然事であり、自らのあり方を「中庸」の「道」として自覚した上で為されたものではなかったと考えられていたのでした。
このような朱子学の捉え方に較べて見れば、仁斎が「中庸」と「中」とを全く異なる二つの概念として截然と分離したことは、極めて独創的なものであったことが理解されます。

つまり仁斎の「中」は、「両端に就いて言う」「中間」であり、「穏当・平正の意有」るものであるとともに、固定的限定的なものではなく幅をもちつつ有るものなのです。
そして「中」がこのようなものであるとき、「中を執る」というあり方は、人にとってある困難性を帯び弊害を伴う危険性を孕むもの「泛然拠ること無きの患」となります。
(ちなみに「泛然拠ること無きの患」とは、「中」が漠然たる幅をもちつつ存在するものである限り、現実的な個々の場面において、「中を執る」というありようはいかなる具体的なあり方をも特定することがなく、それは「剛柔・大小・厚薄・浅深」あるいは「事の本末・理の精粗」を意識しつつその「中間」の「穏当・平正」なる有り方を意味するのみで、礼法のように具体的な行為を指示する規範たることができないということを意味します)

更には、幅のある「中」において現実的に妥当な「中を執る」ためには、常にその場その場の情況を的確に判断して、臨機応変にそれに対応しなければなりません。
そしてこのような事態において、「中」は「権」との連関でとらえらます。
「権」とはある情況において何が妥当であるかを「権」ることであり、「物の軽重を称り其の当を求むる所以」とされるものなのです。
仁斎が「中」を幅のある漠然とした「中間」とした以上、「中を執る」という有り方には常にこうした「権」による具体的な妥当的行為の模索が必須とされるのです。
一方、「中を執る」という有り方に「権」が伴わないとき、そこには「変せざるの弊」が生ずる、と仁斎は言います。
「中」は幅のある「中間」であって固定的・限定的なものではないから、「権」を適用することなしには「中を執る」ことはできません。
「権」の働きを欠く「中」は、一つの立場への固執・拘泥という弊害に陥る危険性を常に孕んでいます。
この意味においても「権」は「中を執る」ことにおいて必須とされるのです。
仁斎のこうした「中」概念は、基本的にこのような「中間」としての「中」、「権」を必須の要請としながらもそれとは厳密に分離された「中」を意味するものなのです。

このように仁斎は、「中」を「中庸」とを全く分離し独立したものであり、「中」には「権」をめぐり二つの「中」があると考えていたのです。

その上で「中」は「礼」との対照で論じられ、そこにおいて相対的に低い位置付けがなされています。
孔孟は「常に礼を以て人を教えて中を言わ」ず、また「専ら仁義を以て宗と為して、中に至っては、則ち未だ緊要の功と為」(発揮・綱領) なかった、と仁斎は説きました。
何故、孔孟は「礼」を言い「中」を言わなかったのでしょうか。
それは、上記に示したように「権」をめぐる「中」の問題を伴い、弊害に陥る危険性を孕むものであることがふまえられていたからではないでしょうか。
『中庸発揮』の内容はそこまでは至ってはいませんが、仁斎はこうした「中」の非有効性の問題にも気付いていたはずです。
その先の真理を、彼はどう説こうとしていたのか。

そんな読み解きも、『中庸発揮』の行間から読み取れるかもしれません。

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