二十四史の整理マップ!伝説上の帝王黄帝から明滅亡の1644年までの歴史!

『二十四史』は、18世紀の清朝乾隆年間に勅撰された中国の王朝の正史正24書の総称のことで、上代における伝説上の帝王「黄帝」から明滅亡の1644年までの歴史を含んだものです。
『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』『晋書』『宋書』『南斉書』『梁書』『陳書』『魏書』『北斉書』『周書』『隋書』『南史』『北史』『旧唐書』『唐書』『旧五代史』『五代史』『宋史』『遼史』『金史』『元史』『明史』。
そこでここでは現在整理中の『二十四史』について、目次で収まりきれないものを整理マップとして抽出しました。

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『二十四史』は清の乾隆帝によって定められたもので、『新元史』を加えて二十五史、『清史稿』を加えて二十六史という呼び方もされています。
この「二十四史」はいずれも「紀伝体」という形を採っています。
歴代皇帝の事績と総合年表を兼ねた「本紀」と、宗室(皇族)や臣民の伝記である「列伝」とを基本とした史書の記述形態です。
これに対し、『春秋左氏伝』や『資治通鑑』などの記述形態は、登場人物ごとにまとめるのではなく、年月順にまとめて起こった事件を記録しており、「編年体」と呼ばれます。

この「二十四史」に含まれる各史書の成り立ちはさまざまです。
・『後漢書』『三国志』のように私的に編纂された史書が後日「正史」に列せられたもの
・『漢書』のように公的な立場にある人が著述した史書が「正史」とされたもの
・『晉書』のように最初から国家により選任されたスタッフが編纂したもの
などに分類されており、あとの分類のものほど官製史書の性格が濃くなります。
※)『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』は“前四史”と称されて文学哲学者にも必読書とされ、経書のごとく古典としても扱われて種々の注釈が加えられています。

また、これらの史書は、『史記』を除けば、王朝が滅びてから後代の史家が著述・編纂したものです。
そのため、著述・編纂当時の王朝が記述対象である王朝をどのように位置づけていたかによって、質的に左右されるものでした。

二十四史は、通史と断代史との二種類に分類されています。
複数の王朝を縦断して記述した史書が通史であり、一つの王朝だけを区切って記述した史書が断代史です。
『史記』『南史』『北史』『旧五代史』『新五代史』が通史であり、他は断代史となります。

また、成立事情はそれぞれ異なりますが、南北朝から五代までは、同じ時代を扱った史書が二つずつ並立しています。
『宋書』『南斉書』『梁書』『陳書』と『南史』、『魏書』『北斉書』『周書』『隋書』と『北史』、『旧唐書』と『新唐書』、『旧五代史』と『新五代史』という対の形です。
特に、先に書かれた方は王朝滅亡から近いため権力者に配慮して記載していないことを、後に書かれた方で記載されていることもあり、双方を比較することが貴重な史料批判、考証となっています。

また、時代の変遷した状況については、史書によって記載方法が異なります。

『三国志』では魏の君主が正式な「皇帝」とされながら、現実には蜀漢と呉とがそれぞれ対等の王朝として記載されています。
『晉書』には五胡十六国が巻末に「載記」としてまとめられており、南北朝時代の正史は、分裂していたそれぞれの王朝ごとに編集されています。
『旧五代史』には地方政権である十国が「世襲列伝」「僭偽列伝」の中に記載されていますが、『新五代史』の場合は諸侯の伝記に当たる「世家」としてまとめられています。
なお、10世紀にタングート族が建国した「夏(西夏)」の歴史は、同時代の『宋史』『遼史』『金史』中の「列伝」として記載されており、独立の正史は作られていません。

中国の正史のうち、「表」が存在するのは、『史記』と『漢書』、その他は『新唐書』以後のものになります。
魏晉南北朝時代の正史には、「表」が含まれていません。
「表」は、宗室(皇族)の系譜や大臣の任免など、客観的な事実経過を表にすることにより、「紀」「伝」を理解する一助になるものです。

以下に、『二十四史』全体としてざっとどれだけのものがあるのかを整理しておきます。
ちなみに、史記や後漢書、三国志などのそれぞれの内容については、追々纏めていきたいと思っています。

 史記 】 前漢・司馬遷 130巻(本紀12巻、表10巻、書8巻、世家30巻、列伝70巻) 
二十四史の第1。中国史上最初の紀伝体の歴史書で以後の史書の方向性をほぼ決定付けた。前漢期(前1世紀)に成立したと言われる。
本紀十二巻、表十巻、書八巻、世家三十巻、列伝七十巻の全百三十巻で構成され、黄帝から始まり五帝、夏、殷、周、秦を経て漢の武帝の晩年までが記されている。
もとは太史令であった頃の司馬遷の著作として「太史公書」と称され、「史記」という名称が一般化されたのは後漢末以降と言われている。
司馬遷は、元封三年(AC108年)父司馬談を継いで太史令となり、太初暦の作成に参与した。その後父の遺稿である「太史公書」を書き継いだ。時に天漢三年(AC98年)匈奴討伐において捕虜となった李陵を弁護して武帝の怒りに触れて宮刑に処された。その屈辱を耐え忍んで史記を完成させた。
「八書」の制度史とは、禮書、樂書、律書、暦書、天官書、封禅書、河渠書、平準書である。
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 漢書 】 後漢・班固 100巻(『魏志』30巻・『蜀志』15巻・『呉志』20巻)
二十四史の第2。後漢朝(1世紀後半)に成立。前漢約二百年を記述。
本紀十二巻、列伝七十巻、表八巻、志十巻で構成。
班固は字を孟堅といい、班彪の子、班超の兄である。父が史記の続編として著作していた「太史公後伝」を継承して漢書を書いた。しかし、竇憲の党派であったために官を免ぜられ、またそれまで見逃されていた旧悪によって洛陽令に捕縛され獄死した。
漢書は未完成であった為、和帝は詔勅をもって班固の妹である班昭(字は恵班、曹大家と号す)に命じて漢書を補完させた。班昭は「八表」を補った。
制度史である「十志」とは、律暦志、禮樂志、刑法志、食貨志、郊祀志、天文志、五行志、地理志、溝洫志、藝文志である。
「十志」のうち天文志は、班昭の指導を受けた馬續(字は季則)によって作られた。
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 後漢書 】 宋・范曄   120巻 
二十四史の第3。
本紀十巻、志三十巻、八十列伝の全百二十巻。光武帝から献帝までを記す。
現行の「後漢書」は范曄が著した「後漢書」に唐代の章懐太子李賢が注釈を施した「章懐注」が付けられた本紀と列伝に、司馬彪が著し劉昭が注釈を施した「志」を合せたものである。
范曄は、東晋の隆安二年(397年)に生まれた。従伯の范弘之の爵位を継ぐ等したが、時の文帝の弟の母の葬儀の際、仲間と北の窓を開けて挽歌を歌い痛飲するという無礼によって宣城太守に左遷された。この時後漢書の著作を決したという。その後呼び戻されて左衛将軍等を歴任し、太子詹事まで昇進した。しかし、孔熙先の謀叛(皇弟の彭城王擁立運動)に関与した罪により元嘉二年(446年)四十八歳の時処刑された。
完成を見なかった范曄の後漢書は、梁の劉昭によって完成したと言える。劉昭。字は宣卿。平原郡高唐県の人。梁の武帝の通直郎として宮中の図書を閲覧して注釈や不備を補っていました。彼は范曄の「後漢書」は未完であるが他の後漢書と比較して優れている点を挙げて、欠けている「志」といくつかの「紀伝」部分を補うことにした。「志」は司馬彪の「続漢書」の「八志」を范曄自身も誉め讃えており、また残された自序「獄中より甥と姪に与える書」には漢書の十志を備える予定であったことが書かれていたことから、司馬彪の「続漢書」の「八志」を合せて正史としての体裁を整えさせた。また紀伝部や志部にも注を附し「集注後漢」百八十巻を著わした。
「東観漢記」という書がある。「後漢書」を始めとする後漢に関する資料の元になったもので、東観という部署で編纂された。そもそも後漢では「漢書」等を撰述した蘭臺令史が正式な史官とされていたが、後漢中期の和帝頃以降は東観が史書編纂の中心に移っていった。その中心人物が明帝期の班固であり、安帝期の劉珍であり、「十意」を著した蔡邑*であった。三国時代には「史記」「漢書」と並んで「三史」と称揚されていたという。しかし「東観漢記」は幾代にも渡って書き継がれたことで統一性がなく評判が悪かった。そこで後漢が滅びると同時代書という制約が外れて後漢の史書を編纂する試みが次々に行われた。
次に挙げるのは後漢に関する書として編纂されたと伝えられる書です。うち現存するのは范曄の「後漢書」と袁宏の「後漢記」のみです。
三国呉の謝承の「後漢書」103巻、 薛瑩の「後漢記」100巻、
西晋の司馬彪の「続漢書」83巻、 華喬*の「漢後書」97巻、 謝沈の「後漢書」122巻、
東晋の袁宏の「後漢記」30巻、 袁松山の「後漢書」100巻、
劉氏宋の范曄の「後漢書」97巻、 劉義慶の「後漢書」
梁の簫子顔の「後漢書」100巻、
他に張[王番]の「後漢紀」30巻、張瑩の「後漢南記」55巻、著者不明の「後漢書」がある。
「八志」とは律暦志、禮儀志、祭祀志、天文志、五行志、郡國志、百官志、輿服志である。
邦訳は後漢三国家頁様を参照。
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【 三国志 】 晋・陳寿   65巻 
二十四史の第4。西晋朝(3世紀半ば)に成立。
魏書三十巻、蜀書十五巻、呉書二十巻の全六十五巻の構成。他の史書に当然のようにある「表」と「志」の部分がない。また本紀があるのは魏書だけで、蜀書・呉書ともに皇帝も伝として扱われている。
「三国志」という書物に関する詳細は同じ「軍師の間」にある「三豪傑の三国志講座」をご覧下さい。
前時代に書かれた「史記」「漢書」はすでに完成・流布されており、史書としてのあるべき形はすでに常識化されていたと考えられるが、陳寿が直面した三国時代という特殊な時代を史書として著述することは前代未聞であり、陳寿の苦労が書を通して垣間見える。また撰者である陳寿自身の出自と性情が反映されている点も他の史書に比べて色濃く特徴的と考えられる。
陳寿は字を承祚といい、巴西郡安漢県(四川省南充)の人。三国時代の蜀の建興十一年(233年)に生まれ、[言焦]周に師事し、尚書と春秋三伝(左氏伝・公羊伝・穀梁伝)を学んだ。蜀に仕え、蜀滅亡後は晋に仕えて三国志を完成させた。恵帝の元康七年(297年)六十五歳で亡くなった。他に「古国志」五十篇、「益部耆旧伝」十篇を著したが現存しない。
後に裴松之が注釈をつけたがその出典はおよそ二百数十種に及ぶ。その一部は「裴松之注引用書目録」として筑摩文庫「三国志」第八巻所収 今鷹真氏製作の「裴松之注引用書目」を紹介しています。
裴松之は字を世期といい、河東郡聞喜県(山東省聞喜)の人。とはいえ生まれたのは東晋の簡文帝の咸安二年(372年)であるからすでに南北朝期にあり、河東郡は東晋の領土ではない。東晋に仕え、のちに宋の劉裕に認められて宋に仕えた。東晋が滅んだのは彼が四十九歳の時。「三国志注」は宋の文帝の命で作成され、元嘉六年(429年)に上奏された。元嘉十四年(437年)八十歳で死去した。
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【 晋書 】 唐・房玄齢、柯劭忞他 130巻(帝紀10巻・志20巻・列伝70巻・載記30巻)
二十四史の第5。しかし成立は13番目。唐朝(7世紀前半)の644年に成立。
唐の太宗皇帝の号令下で史書が編纂された第3号。
西晋四代54年間、東晋十一代104年を記した。
本紀十巻、志二十巻、列伝七十巻、戴記三十巻の構成。
「志」は十志からなり、天文志、地理志、律歴志、禮志、樂志、職官志、輿服志、食貨志、五行志、刑法志。
晋書の難しさは西晋によって統一された中国が再び分裂してしまった事だ。つまり統一王朝から江南の一地方政権となっている東晋と、中国の北に割拠する異民族国家を如何に史書に記すかという点である。現在「晋書」には「戴記」という項目を設けて北朝の歴史も記されている。
十八家晋書と言われるように史学の隆盛を受けて私撰「晋書」は十八家に及んだ。「晋書」巻八十二には「晋書」に携ったと思われる十二人の史家の列伝があるが、他にも「隋書 経籍志」には十九家の「晋」の名を冠する史書があるという。
原文・邦訳は解體晉書様、三国検索様(地理誌原文、邦訳)をご参照下さい。

【 宋書 】 南斉・沈約 100巻
二十四史の第6。梁朝期に成立。
南朝の宋の正史。梁の沈約が斉の武帝の勅を受けて撰。
本紀十巻、志三十巻、列伝六十巻の構成。
「志」は律暦志・禮志・楽志・天文志・符瑞志・五行志・州郡志・百官志から成る。

【 南斉書 】 梁・蕭子顕 59巻
二十四史の第7。南朝の斉の史書。
本紀八巻、志十一巻、列伝四十巻の構成。
「志」は禮志・楽志・天文志・州郡志・百官志・輿服志・祥瑞志・五行志から成る。
梁の江淹が勅命によって手掛け、彼は志の部分が最も難しいとして十志を最初に仕上げた。沈約も「斉記」二十篇を記したが、梁の瀟子顕がこれらを整理して上奏した。

【 梁書 】唐・姚思廉 56巻(本紀6巻・列伝50巻)
二十四史の第8。南朝の梁の4代の事跡をしるした史書。
本紀六巻、列伝五十巻の構成。
 表・志を備えず、駢文を用いない著述が特徴とされる。
 梁・陳に仕えた父/姚察の業を継いだものであり、そのため父の故主や知人に配慮して記さなかった事績も少なからずあり、この姿勢は評者によって判断が分かれるところで、公平性は『南史』に劣ると批判される事もある。
 清の趙翼は「『南史』は『梁書』の事蹟を増すこと最も多し。
 正史の文詞事蹟は極力簡浄としながらも、正史に無き瑣言砕事・新奇可喜の蹟は補綴せざるなし。
 『梁書』は国史の旧文に據り、関わり有らば書き、関わり有りと雖も忌諱有らば隠す。
 故に行墨最も簡にして『南史』の増益多きを覚ゆ…『南史』の行文渋滞多くして『梁書』の爽勁に及ばず」と、史家としての立場から評している。

【 陳書 】 唐・姚思廉 36巻(本紀6巻、列伝30巻)
二十四史の第9。南朝の陳の史書。
姚思廉が太宗の勅命を奉じて撰。北宋の仁宗がこれを曾鞏(そうきょう)らに校訂させて刊行。
本紀六巻、列伝三十巻の構成。

【 魏書 】 北斉・魏収 114巻
二十四史の第10。魏晋南北朝の北魏の史書。
曲筆が多く穢史と非難された。北魏書、後魏書とも呼ぶ。
本紀十二巻、列伝九十二巻、志二十巻の構成。
 恣意による毀誉褒貶が強く、完成直後から収賄や怨恨による曲筆・不平を糾弾され、3度の改訂の後も“穢史”とすら酷評されて隋唐で楊素の『魏書』をはじめ多くの魏史が撰述されたが、いずれも早くに亡佚して魏収書もまた宋代には多くを欠落し、『北史』によって補われた部分が少なくない。
 同時代の史料と比較した場合に、高氏とその縁類以外には曲筆と断じ得る点は殆どないとの指摘もある。
 魏史だけでなく代政権や十六国、南朝諸王朝をも収録し、また仏教・道教の為に特に釈老志が建てられている。

【 北斉書 】 唐・李百薬 50巻
二十四史の第11。北斉1代の史書。
唐の太宗の命により李百薬の撰。唐朝期に成立。

【 周書 】 唐・令狐徳棻他 50巻
二十四史の第12。北周の史書。
唐の太宗の命により令狐徳フンら撰。北周書、後周書とも呼ぶ。唐朝期に成立。

【 南史 】 唐・李延寿 80巻(本紀10巻、列伝70巻)
二十四史の第13。唐朝期に成立。
南北朝の戦乱期を宋、斉、梁、陳の王朝4史を要約し、南朝4代170年間の事跡を記した官製史書。
 父の李大師の業を継いだもので、志・表は備えず、『北史』編纂に注力して特に西魏に詳細で、『南史』は父の作を再編したのみと伝えられる。
 簡略化と瑣言砕事の増補が批判される事もある。

【 北史 】 唐・李延寿 100巻(本紀12巻、列伝88巻)
二十四史の第14。北朝の魏・斉・周・隋の歴史を一つにまとめたもの。唐朝期に成立。
 詔令や上奏文の多くを省いた簡略な文章が好まれ、文量は南北朝8書の半ばほどであり志怪的な逸話も多いながらも遺漏記事の補填が喜ばれ、659年に正史として公認された後は隋書を除いた南北朝7書は読まれなくなったという。
 詳密かつ首尾一貫し、編次の趣意も理に適っていると絶賛される。

【 隋書 】 唐・魏徴、長孫無忌 85巻
二十四史の第15。隋代を扱った史書。
特に「経籍志」が名高い。唐の魏徴らが太宗の勅を奉じて撰。唐朝期に成立。

【 旧唐書 】 後晋・劉昫他 200巻
二十四史の第16。唐代の正史の一。後晋漢期に成立。後晋滅亡の前年(945)に完成・奉上された。
 唐末の戦乱で散佚した諸書を蒐集して編纂したが、総裁官の変更もあって統一性に欠けて一人二伝なども発生し、また実録の絶えた唐武宗以降の記述は断片的記録を補綴したものとなっている。
 北宋で勅撰の唐書が完成されると『旧唐書』と呼ばれて区別されたが、資料的価値は『新唐書』より上に置かれる。

【 新唐書 】 北宋・欧陽脩、宋祁 225巻(本紀10巻・志50巻・表15巻・列伝150巻)
二十四史の第17。唐代の正史。
旧唐書の欠を補い補修したもの。単に「唐書」(とうじょ)とも呼ぶ。宋朝期に成立。
 唐史はすでに後晋高祖の勅撰になる200巻本が存在したが、当時から晩唐の資料不足が指摘されており、宋代になって唐代資料が多く発見されたことで編纂され、旧『唐書』は『旧唐書』と通称されるようになった。
 編纂者の多くが韓愈の古文運動の支持者である為、簡略化がすぎて文意が不明瞭になったり詔勅の古文への改竄などが観られ、加えて道義を重んじる“春秋の筆法”を意識して記述が主観的に傾き、取材史料が豊富な故に取捨選択に恣意が散見されるなど、編纂者からも批判が生じた。
 呂夏卿が『唐書直筆新例』を著したのはその好例で、司馬光の『資治通鑑』も唐の部分は『旧唐書』に依っている。

【 旧五代史 】 北宋・薛居正他 150巻
二十四史の第18。五代の王朝の歴史。宋朝期に成立。

【 新五代史 】 北宋・欧陽脩 74巻
二十四史の第19。紀伝体の通史。
欧陽修の死後、正史に列す。五代史記とも称。宋朝期に成立。
 勅撰の五代史はすでに太祖のとき薛居正らが編纂していたが、欧陽脩は『唐書』の新撰に倣って『五代史』を私撰し、死後に奉上されて官書として正史に加えられた。
 『旧五代史』が王朝別の断代形式を採っているのに対し、五代を一王朝期と見做して本紀・列伝を置いている点が特徴とされるが、『新唐書』同様に道義観に傾いて原史料の改竄や歪曲が指摘され、藩鎮的な荊南を世家に加えている点も批判されている。

【 宋史 】 元・トクト・欧陽玄、他 496巻(本紀47巻・志162巻・表32巻・列伝255巻)
二十四史の第20。宋代の正史。
歴代正史中、最も膨大。元朝期に成立。
 南宋の国史(実録)や多くの野史のほか石碑・墓誌などの豊富な資料を参照したが、3年間で『遼史』116巻・『金史』135巻と並行して編纂された為に文章量のみが増えて二十四史で最も大部となり、他2史との齟齬も散見される。

【 遼史 】 元・トクト(脱脱)他 116巻
二十四史の第21。遼代の史書。
元の宰相脱脱・欧陽玄らが順帝の命を奉じて撰。元朝期に成立。

【 金史 】 元・トクト(脱脱)他 135巻
二十四史の第22。金の史書。元朝期に成立。
本紀十九巻、志三十九巻、表四巻、列伝七十三巻から成る。
志は天文志、暦志、五行志、地理志、河渠志、禮志、楽志、儀?志、輿服志、兵志、刑志、食貨志、選擧志、百官志。

【 元史 】 明・宋濂他 210巻(本紀47巻、表8巻、志58巻、列伝97巻)
二十四史の第23。元の正史。
わずか8ヵ月で成り、誤謬が多いため、民国になって柯劭撰の「新元史」が作られた。元朝~明朝期に成立。
 漢人王朝復興の宣揚を急ぐ為に、実質1年間の拙速な編纂で洪武3年(1370)に完成した事から、典拠に対する不充分な検証、諸伝での齟齬や表記の不統一、同一人複数伝など各種の問題を孕み、二十四史中で最も評価が低い。

【 明史 】 清・張廷玉等 332巻
二十四史の第24。明朝の正史。清朝期に成立。
本紀二十四巻、志七十五巻、表十三巻、列伝二百二十巻。
志は天文志、五行志、暦志、地理志、禮志、楽志、儀衛志、輿服志、選擧志、職官志、食貨志、河渠志、兵志、刑法志、藝文志から成る。
余花園様で注釈を公開されています。

【 新元史 】 柯劭忞ほか撰 本紀26巻、志70巻、列伝154巻
清朝期に成立。「元史」に代る元朝の歴史。
1919年、大総統令で正史に列せられた。「元史」の出来が粗悪であったため改めて作成。二十五史とした場合はこれが加わる。
『元史』の不備を補う目的で、明代に執筆された各種の元朝史の他に『元朝秘史』『集史』などを参照したが、『元史』からの改訂箇所や増補分の典拠が不明確で、また誤引も多く、1930年には重訂版が刊行され、また柯劭忞による『新元史考証』で典拠が解説された。

【 清史稿 】
本紀二十五巻、志百三十五巻、表五十三巻、列伝三百十六巻、
 帝政を図る袁世凱が主導した、清史の準備稿。
 志は天文志、災異志、時憲志、地理志、禮志、楽志、輿服志、選擧志、職官志、食貨志、河渠志、兵志、刑法志、藝文志、交通志、邦交志から成る。
 1914年に清史館が開設され、趙爾巽を館長、柯劭忞らを総纂として学者百人余が動員され、1927年に脱稿した。
 帝政を肯定し、国民政府を賊として扱った為に北伐に成功した蒋介石から禁書とされたが(関内本)、満州に持ち出された改訂版(529巻)の刊行が続けられた(関外本)。
 清史は1961年に台湾政府から刊行され、また共和国政府でも編纂が行なわれ、唯一の正史的清史として『清史稿』の出版も認められている。

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