河井継之助!地下百丈の心に立つ!

河井継之助は、幕末期の越後長岡藩士です。
佐久間象山、斎藤拙堂、古賀謹一郎、山田方谷※)らに師事し、長崎に遊学して開国論を唱えました。
※)山田方谷については、”理財論より学ぶ!幕末の偉人、財政再建の神様・ 山田方谷について!”も参考にしてください。

長岡藩に戻ると、類まれなる行政手腕で長岡藩の改革を行い、風紀粛正や農政改革、灌漑工事、兵制改革などを実施し成果を上げています。
慶応元年郡奉行、翌年町奉行兼務、同3年家老に上り、同年12月藩主牧野忠訓に従い上洛、王政復古で誕生した新政府に対し徳川への大政再委任を建言しました。
新政府と会津藩並びに奥羽諸藩との間に入って武装中立を目指し、双方の融和を図ろうとして失敗、戊辰戦争最大の激戦とされる北越戦争に突入、新政府軍を苦しめるも敗戦、戦死しています。

河井は常日頃、「地下百丈の心」として
「人間の浮ついた心は頼むに足りない。
 棺中に入れられて、蓋をされ、釘を打たれ、土中に埋められて、しかる後の心でなければ、真の役に立たないものだ」
と言い、死を賭した心によって物事にあたるという気迫を常に示したといわれています。
また「眼を開き、耳を開かなければ、何事も行われぬ」と言い、その死を賭けた生き方、私利私欲や毀誉褒貶を一切意に介せず、大義や天の理想に生き、それを社会に顕現することを使命とする気概ある心と行動は、まさに武士道に生きたラストサムライであり、幕末維新の原動力ともなった陽明学的な生き方を貫いたともいえます。

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